まじめにゆるく考えるーー東浩紀『ゆるく考える』(河出文庫)

(シミルボン2019年11月20日原稿の再録)

SNS、とくにTwitterの可能性を信じていたころの連載エッセイ「なんとなく考える」(2008~2010年)全20回がまるごと収録されている。東浩紀がTwitterに見た夢は、ルソーの再解釈を試みのちに書籍にもなった『一般意思2.0.』に結実している。が、この「夢」も今から10年も前のこと。東浩紀はまだ37才で、今の私と同じ年なので、そういう視点(「37才でこういう文章を書くのか」という視点
だ)でも読んでいた。

東浩紀のやろうとしている「ゆるく」考えることは、なかなか理解されにくい。彼の思想の前提となっているのは、コンスタティブとパフォーマティブの亀裂である。乱暴にまとめてしまうと、コンスタティブとは発言の内容であり真偽は検証できる。他方、パフォーマティブとは発言というふるまいそのもので、内容とは別に切り離されうる。彼が考える文壇や批評の世界とは、「まじめに〇〇につ
いて議論する場」であり、そこではコンスタティブな発言を担保する参加者の立場(=パフォーマティブ)が、「まじめ」という態度で担保されている。

でも世の中を見渡してみると、発言内容と発言のふるまいはどんどん分離していっている。この亀裂を乗り越えようと「あえて」ふるまうことを期待されていたのが、従来の思想家・批評家であったわけだ。だが、この「あえて」公共性を志向する姿勢は、どうなのだろうか? というのが東の問いかけだ。キーワードが「ゆるく」であり、本当は連載もそういうタイトルにしたかったのだが、「なん
となく考える」に変更せざるを得なかった。というエピソードにも、彼の「ゆるく」という言葉に込められた思いと、それを理解するための文脈の未成熟さがわかる。

東浩紀は「なんとなく考える」の連載終盤で、Twitterの力を信じ、SNSを通じたアーキテクチャの設計(ソースはオープンにして)による「一般意志」の表現が可能ではないかと、やや興奮しつつ語っている。(詳しくは『一般意志2.0』を参照)結果から言えば、これは頓挫した夢であった。東浩紀は先日、Twitterをやめた。

TwitterというSNSのスタイル(アーキテクチャ)の問題なのか、それとも東浩紀の「ゆるさ」が理解されにくいのか。いやおそらく、その両方ではないか。ややこしい言い方になるが、東浩紀はここ10年「まじめ」に「ゆるさ」を考えてきた批評家なのだと思う。そしてこういう言い方が理解されるのも、例えばシミルボンといった書評プラットフォームの上であることも、また彼の試みの困難さの一
端を示している。東浩紀の「ゆるさ」を「まじめ」に理解しようとする読者がいる、という点においてシミルボンのプラットフォームは素晴らしい。だが、そうではないプラットフォームにおいて、どう「ゆるく」やっていけるのか。少なくとも東浩紀にとっては、それはTwitterではできないのだ(と分かるのに10年)。

追記(2024年4月21日)

この記事を書いたときには東浩紀はTwitterを止めていたのだが、今は再開している。というかもうTwitterではない。

SNSではないプラットフォームでどうやって言論をやっていくのかは、東浩紀のみならず最近の言論・文壇の人は考えることだろう。配信(動画やメールマガジン)中心の会員・サブスクで固定費を確保し、配信内容をもとに本やイベントに繋げていく、というのが人文系出版がシュリンクしていく時代に持続可能な方法だろう。プラットフォームを自前で用意するかYouTubeの有料会員使うかは、そ
の人の影響力(インフルエンス)次第。と考えた時に、いくつか気になる点がある。

会員=ファン(信者)ビジネスではないのか?
言論がファンビジネスでよいのか?
じつは言論は昔から今もファンビジネスではないのか?
動画でしゃべれる技術や内容は、本に書く技術や内容と異なっているのではないか?
じつは同じではないのか?
もし違うとしたら、困るのか?
そもそも安定した経済基盤がないと、言論活動できないのか?
市場と言論は重なるのか、重なるべきか、重ねてはいけないのか?
(答えがある問いではない。)

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