なぜ国語の授業で生徒は自分の気持ちの変化を感想として提出するのか問題――橋本陽介『使える!「国語」の考え方』(ちくま新書)書評

(シミルボン2019年1月17日掲載の再掲)

この本は、学校の国語の授業、特に現代文において、教員は何を目標にしているのか、しかし、なぜそれが生徒に伝わらないのかを分析している。そして、科目としての国語が目指すものをどうすれば身に着けられるのか、豊富な具体例(生徒やプロ作家の作文添削含む!)を交えながら、示している。さらには情報過多と形容されるSNS時代において必要なリテラシーが、国語の学習の延長にあるだろう人文的な知によって獲得できるのではないか、と説く。

ということで、本書はだいたい3つに分けられる。
①現代文の授業解説
②論理的な文章の書き方(→読み方)
③SNS時代のリテラシー

一番、面白いと思ったのは、①現代文の授業解説である。小説を解説する授業を解説する、ある意味でメタな論だ。

現代文の教科書に出ている日本近代文学作品の「羅生門」を取り上げ、標準的な授業の様子を指導案から復元し、筆者が大学で教えている生徒からとった高校現代文の授業についてのアンケートと照らし合わせながら、現代文の授業のねらいとその成功失敗を検証している。

基本的に、近現代文学を読むときには、読者は登場人物の内面とその変化に着目する。ただ内面をすべて吐露する登場人物ばかりではないし、焦点(語り手の視線が向けられる先)が内面まで届かないものもいるので、外面=描写から類推することも求められる。でもまあ、心情をたどるか描写から考えるかいずれの道も、登場人物の内面にたどり着く。そして「優れた」(教科書に載るような、という意味)文学作品は、内面は葛藤し、スタートとゴールでは内面に変化がみられるものなのだ。このような心情をたどっていく読みを橋本は「心情中心主義」と呼ぶ。

もう一つ、教科書に載っている作品を「味わう」ことも生徒は求められている(学習指導要領にもそう書いてあるのだ)。これを橋本は「鑑賞中心主義」と呼んでいる。橋本はこの鑑賞中心主義にもツッコミを入れている。教科書に採用される作品は、どれも「よい」ものであるという前提があるが、そもそもこの前提がおかしくないか? 「羅生門」であれば、明らかに芥川はテーマ先行、書き込みすぎ、キャラが薄っぺらい造形であり、森鴎外『舞姫』ならば、語り手の主人公は、あまりにもダメ男すぎる。小説ではないが、宮崎駿の『天空の城ラピュタ』のクライマックスシーンでも、主人公は「語りすぎている」のではないか、と疑問を呈する。

小説を扱う現代文の授業のねらいは「登場人物の心情変化を追うこと」であり「文学作品を味わう」ことだと学習指導要領に規定される。他方、生徒は、登場人物の心の動きをおったところで「ふーん」「あっそ」と思うかもしれないし、良いとされているものを読んだところで「良い」という答え以外出しようがない。だから現代文の授業への不満として生徒アンケートに、「よくわからない」「面白くない」として書かれていたのだ。

②の論理的な文章の書き方(→読み方)も役に立つ。何より、生徒のレポートを添削する、あるいは出版されている本からとった文章の読みにくさを指摘し書き直しをしているのが面白いし、ためになる。現代文の読解問題として問われる要素(1順番、2指示語・接続語、3事実と意見、4主張と根拠、5抽象と具体)は、自分自身が文章を書くときに注意をしたほうが良い点である。

筆者が勧めている書き方は序論→本論→結論。序論で全体の見取り図を提示し、本論では具体性を上げ、結論では論の主張を繰り返し(抽象)、次があれば次につなげる。1段落1トピック。序論で示したこと以上のものは書かない。(脱線はしない。)英語のエッセイライティングの構造と同じである。というかエッセイというのはそういうものだ。これ、読めばそうだと思うし、わかりやすい=うまい文章はそう書けているのだが、自分がいざ書こうと思うと、なっかなかできない。それを、ダメな例→添削→良い例と解説しているので、ある種の「問題集」としても取り組める。

③SNS時代のリテラシーはここでは詳しく触れない。いかに人文的な知がリテラシーの構築に役立つかが、森友問題から『進撃の巨人』まで引用されて、論じられている。そうなのだ、「国語」の授業なのに(いや、だからこそ?)、言及される作品も結構、幅広い。『ラピュタ』『進撃の巨人』にはすでに言及したが、ネットで落ちてる小話から、新聞記事、専門書に論文と、「国語」で身につく技法が、あらゆるジャンルでも応用可能であることが、ここからも示されている。

現代文の授業にもやもやを感じている現役高校生、あの授業何だったのかと振り返りたい元高校生、それに論理的=伝わりやすい・わかりやすい文章を書きたい人、現代を生き抜くリテラシーを身に着けたい人には、良い本である。ためになる。

最後に。

国語教育が道徳教育、イデオロギー注入装置である、というのは自明のことだ。その変遷をたどったのが堀越英美『不道徳お母さん講座』である。教育指導要領で生徒に求められているものは単なる「項目」ではなく、学校=国家のイデオロギー装置というストーリーの一部である。では、どんなイデオロギーか?

日本人に近代文学を読むことで内面化してもらいたいのは、近代文学作品が描く登場人物(語り手、私小説の場合は筆者に限りなく重なる)の内面的葛藤である。葛藤を通じて内面を獲得する、といえばよいか。心情の変化をたどりながら、読者=生徒も心情の変化を体験する。だから、授業の最後に書いてもらう「感想」で、「私も~のようになりたいと思った」「私は~を読むことができてよかった」と心情を吐露する。この生徒=読者による突然の私小説的「告白」は、中高大の国語・文学の教員とあって話をすると必ず聞ける愚痴である。でも、この愚痴にこそ国語教育の完成が見えるのではないか、と私は思うのであった。

もうひとつ。文学を鑑賞する態度は、国語というイデオロギーから離れてしまうと、あとは好みの問題になると思う。「書きすぎているからダメ」というのは「書きすぎている(わかりやすい)からよい」というのと、同じ価値である。これは本当に好みの問題だ。「文学はこうあるべし」はイデオロギーの産物で、かつては「ここには人間が描かれている」的な、なんだかよくわからない「良いから良い」というトートロジカルな評価があったようにも思うが、もはやそのようなイデオロギーは、特定の場所でのみ有効なのだろう。ただ一般的に、小説を読むのが好きな人は、ちょっと頭を使ったり、ちょっと描写を読み込んだりすることが好きだろうから、書きすぎていない小説のほうが技巧的に優れていると思われがちなのではないか。このへんは愚痴めいた話になるのだが、書きすぎないことを推奨する立場は、本来ならば解釈の多様性に開かれるべきところで、「自分の解釈こそ正しい」というポジションゲームみたいになってしまうのを過去に見たことがある。ので、正統かどうかに接続することなく好き/嫌いにとどめておくのが良い。

追記(2024年1月22日)

最近、気になっているのは、現代の私たちと昔の人たちで、芸術作品の鑑賞経験が異なるのではないか? と言うことだ。発端は、マイケル・ハリス『オンライン・バカ』で、筆者がデジタルデトックスする一方で、トルストイ『戦争を平和』を読むことに挑戦していたからだ。私たちの身の回りにはあまりにも多くの情報があふれている。1人の人間は1つ以上のスクリーンを使い、もっと多くのスクリーンに囲まれ、注意力が絶えず奪われる。私たちはスクリーンの何かを見つめているようで、見つめていない。情報を得ているようで、注意力が奪われている。

別の例を挙げよう。神社仏閣を参拝すると、どんなに派手に装飾されていても鈍い。LEDライトを使うわけにはいかないから。しかし、その「鈍さ」は電気のない昔であれば、「明るい」のだろう。先日、満月が美しく夜空に輝いていたのでスマホのカメラで写真に撮ったのだが、撮れた写真を見てみると、月の手前にある街頭の灯りのほうがまぶしく輝いていた。私たち現代人にとっての月は、昔の人にとっての月よりも「暗い」。

人間の創造力は今も昔もそう変化はないのだろう。ただ、創造力を表現する技術は現代のほうが豊富である。その一方、表現されたものを鑑賞する私たちの能力は、かつてと対して変わっていない気もする。つまり、現代の表現は人間としての私たちが本来的にもつ鑑賞能力をつねに上回っているのではないか。表現過剰に慣れているというか麻痺している私たちが、昔のもっと「ゆったり」とした表現を理解することができるのか? と問いたい。

むろん芸術というか表現一般は、時代と場所を超えた普遍性をもつ。しかし、普遍性だけではなく、作られた時/鑑賞された時という、個別・具体性もある。どの表現も個別性と普遍性の重ね合わせで意味が経験されるのだろうが、私たち現代の個別性は、あまりにも個別的すぎて、作品のもつ普遍的意味まで変化させてしまわないか? というのが私が考えていることである。(問いかけなのは、結論がでていないから。)


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