ポストトゥルースの起源を求めて――リー・マッキンタイア『ポストトゥルース』(人文書院)

ポストトゥルースとは「公共の意見を形成する際に、客観的な事実よりも感情や個人的な信念に訴える方が影響力のある状況を説明するないしは表すもの」と本書ではOEDの定義を紹介されている。(孫引きもアレなので、Oxford Languagesのウェブから拾ってきた定義も貼っておくとPost-truth is an adjective defined as ‘relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than appeals to emotion and personal belief’.)これは「2016年の言葉」としてOEDに選ばれたものだ。直接的にはトランプが選ばれたアメリカ大統領選やイギリスのEU離脱の投票を指しているが、状況circumstancesは世界のいたるところに広がっている。

本書は、ポストトゥルース(形容詞であり、状況を示す名詞としても使えるだろう)がどのように生じたのか、歴史的に原因を分析している。そのうえで、どう対処していくのかも提示する。全7章と、監訳した大橋完太郎の附論からなる。

1. ポストトゥルースは科学の否定である

イデオロギー的な動機のものもあれば経済的な動機のものもあるが、ともかく科学の否定である。ポストトゥルースの前身は、例えばタバコ産業の「喫煙と肺がんの因果関係」を、科学的な事実から、論争的な仮説へと、いかに転落させるかという(主として経済的な動機をもつ)取り組みに見いだせる。

2. ポストトゥルースは私たちの認知バイアスと結びついている

ここ半世紀もの認知科学、心理学の研究によれば、私たちは世界を認識するうえで「癖」のようなものを持っている。自分の信念、態度、行動と世界が一致しないとき、世界の観方をゆがめたり、信念・態度・行動を周囲に合わせたりする。こうあってほしい、という私たちの思いは、認識に影響を及ぼし(「動機づけられた推論」)、情報informationではなく確信confirmationをもとめる(「確証バイアス」)。自分たちの信念に反する証拠に触れると、より自分たちの信念を信じるようになり(「バックファイヤー効果」)、自分の能力不足ゆえに自分の能力を正しく見積もれず過大評価する傾向にある(「ダニング・クルーガー効果」)。こうった(おそらく進化の過程で生存に有利だったから生物学的に私たちにビルトインされた)認知の癖(あるいは歪み)は、ポストトゥルースを繁茂させる土壌となっている。

3. 伝統メディアの凋落/ソーシャルメディアの台頭

伝統メディアから疎外されていると感じたものたちがコミュニティ感覚を得るために党派性のあるメディアを求めた。その結果、伝統メディアには「客観性」「中立性」がなおさら求められるようになったのだが、その結果「偽の等価性false equivalence」にたどり着く。これは、ジャーナリズムの過誤である。「偽の等価性」とは何か? 日本の文脈でいえば「悪しき両論併記」とでもなるだろうか。例えば地球温暖化(気候変動)について科学者の間ではほとんど結論はでている(ほぼ100%の論文で同じことを主張している)のであるが、ニュースメディアでとりあげるときには「様々な意見がある。肯定派は…否定派は…」と50%50%のウェイトを割いていることだ。日本だと、気候変動ではあまり見かけないが、(歴史学のジャンルになるが)歴史修正主義「論争」と似ているだろう。歴史学という学問内では決着している事実を「ひとつの仮説」として「両論併記」を求める姿勢(あるいは両論併記しなければという「責任感」)は「偽の等価性」だ。

4. ポストモダニズムがポストトゥルースの土壌をならした

ポストモダニズムの思想・哲学(の一部)は①客観的なものを主観的な経験に還元し、②あらゆる社会現象をテクスト的構築物と考え、③科学者が真実を求める手順もイデオロギーとは無縁ではない、とした。科学は真実を独占しようとしていると批判された。科学者の中には、現代思想の科学に対する不誠実な姿勢を激しく非難するものもいたが(ソーカル事件)、ポストモダニズムのブームが去った後に、マニュアル化された批判方法は、保守派のイデオロギー拡大に利用された。本書には、保守派の理論家がポストモダン思想を参考にしていた証拠や、ポストモダニストたちの「後悔」が、紹介されている。進化論やその後継であるインテリジェント・デザインは、科学的に全く否定されているが、「進化論もインテリジェント・デザインもともに仮説」という偽の等価性に持ち込めれば、それでOKなのだ。進化論を科学たらしめているその手順をポストモダニズムがやった手順で批判すれば、そのゴールまでたどり着ける。

以上のようないくつかの要因が複合的に関係しあい、ポストトゥルースとよばれる状況を生み出していると、説得的に本書は示している。(本書には当然、もっと細かい丁寧な議論が展開されている。ここでは大まかな紹介にとどめた)

なお附論では、監訳者がフランス現代思想のキーコンセプトの一つである「脱構築」(ジャック・デリダ)のもつ緊張(テンション、と呼んでいる)は、ポストトゥルースとは別物ではないか、と述べている。おそらく、それはその通りなのだろう。デリダであれ何であれ、フランス現代思想あるいはポストモダニズムは、丁寧に丹念に読んでいけば、「真実なんてたどり着けないよね」「あれもこれも平等に仮説だよね」といった雑な結論にはならないだろう。それはわかる。が、それがポストトゥルースにつながってしまうこともわかる。それは本書が明らかにした私たちの認知バイアスと関係していて、脱構築がいくら緊張感をもった遊び/不安の営みであったとしても、いや、そうであるからこそ、私たち(一般人)は哲学的不安に耐えることはできず、雑な結論を選んでしまうのではないか、と思うのであった。

(2020年12月10日シミルボン投稿)

追記(2024年5月25日)

ポストトゥルースと聞いて「それってあなたの感想ですよね」の人を思い浮かべるかもしれない。それは間違っていない。「エビデンスあるんですか?」と聞いてきたり、その反対に「これがエビデンスです」と言ってきたりするが、問題はその「エビデンス」を「エビデンス」として保証するのは何か? である。「論破芸」というのはおそらく「筋道だった論理で相手の主張を反駁する」ということなのだろう。論破芸の人が出てきたときは、論理がとがって見えたのかもしれないが、今やあの人は、「論理的だから」というよりも「この人がいっているから」ということで、重宝されている。l定期的に見かけるウェブニュース(ネット番組やYouTube配信を切り取った「こたつ記事」)での取り上げられ方は、「何を言った」かではなく「誰がいったか」に注目されている。抽象的な論理を使い、おちついて議論するのは難しい。そもそも問題が複雑すぎるし、論理的に考えることを人間が(主語でかい)あまり得意ではないからだろう。



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