つながりっぱなしの世界に切ないセカイはあるのか?――北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』(太田出版)

画期的なセカイ系論。この本の出版により、セカイ系という概念は歴史化されたと言えるのではないか。

筆者は、セカイ系を当時のデジタル・テクノロジーの中に宿っていた独特の感覚(切なさ)を表象したものと位置づける。セカイ系の表象を可能にする手段(デジタル・テクノロジー)や、作品内で表象されているコミュニケーション手段、あるいは作品を鑑賞する私たちが埋め込まれているメディア環境、こういったもろもろの社会・歴史的文脈と紐づけることで、セカイ系的「切なさ」の固有性を切り出すことに本書は成功している。

新海誠『ほしのこえ』では、宇宙規模の移動が可能な世界にいながらメールの届かないケータイ(スマホですらない)を握りしめる登場人物が描かれる。インターネット草創期では、実はインターネットは退屈で、常時接続できなかった。つながれるはずなのにつながれないという「切なさ」が初期インターネットにあり、『ほしのこえ』はそれを表象している。この「切なさ」は、2024年の今、感じることはできない。筆者は『エヴァンゲリオン』の新旧比較を通じ、メディアやテクノロジーの変化をたどる。メディアやテクノロジーの進歩は、私たちに万能感を与える一方、私たちを主体まるごと環境と一体化させた。一体化が進行しつつあった時に感じられた「喪失感」が、セカイ系的「切なさ」なのだろう。いま、世界と繋がりつづける私たちに必要なのは、つながらないこと(筆者はそれを「ポストセカイ系的倫理」と呼ぶ)。

筆者はマラブーの「物質的なもの」という概念を援用する。ラカンの想像界/象徴界/現実界の三区分のうち、現実界のなかに物質的な世界=物質界を追加する。セカイ系文化論がもりあがったとき、東浩紀と斎藤環のやりとりを思い出す。世界をパソコンに例え、想像界=デスクトップ上のアイコン、象徴界=プログラム、現実界=コンピューターのハードディスクとしたが(たしか東浩紀)、現実界とは接触はおろか認識もできないと指摘される(たしか斎藤環)。しかし、私たちのメディア環境を見るに、現実界は、認識できない現実界と、認識も接触も、なんなら積極的に介入もできる物質界にわけることは、説得的に思える。コンピューターが人間の脳の比喩として理解される一方、人間の脳も生物=物質として理解される。脳が脱神秘化されながら、コンピューターが神秘化(魂? 意識? シンギュラリティ?)される。この両方向への動きは、現実界から物質界を分けることにつながる。セカイ系がメディアやテクノロジーの問題であるというとき、物質界が問題になっている。表象と、表象をつかさどる記号と、この両方がのっている物質的基盤。この3つの関係。

つながりっぱなしの日常を生きる私たちに、「世界の終わり」を提示するのは難しい。ポストセカイ系の倫理、「世界の終わり」の「切なさ」を、私たちはどう紡げば良いのだろうか? 本書の問いかけに、私は日常系vlogger(YouTuber)の動画がヒントになるのではと思う。(絶望ライン工がボカロPであったことは、象徴的な意味がある。)

日常系動画にはレイヤーがある。本書を読んで気が付いたが、きわめてノベルゲーム的だ。自室(背景)、vlogger、字幕の3層レイヤー。BGMやSEもつく。日常系動画は、切り取られたものである。つながりっぱなしの日常において、vloggerの「日常」はカメラによって意識的に切り取られる。切り取っている本人は、切り取っていることを隠蔽しつつ(自分で切り取っていない体で)、カメラの中で日常をすごす。日常系動画はアイデンティティの属性(ハッシュタグ)で検索される。「非正規」「工場労働者」「未婚」「30代」「40代」。藤田直哉が「ゼロ年代未完のプロジェクト」で提示したロスジェネ論壇とオタク(セカイ系的想像力)の図式が、奇妙に二重映しになっている可能性がある。スマホ(カメラ)があることで環境に溶け出し続ける自己の輪郭を、どうやって保てばよいのか? スマホ(カメラ)を使い、自分で切り取ることをし直せばよい。日常系 vloggerが個別に切り出すアイデンティティは、視聴者の「可能世界」の1つとして鑑賞される。(ロスジェネの社会・経済的問題が「救済」されるわけではない。救済どころか、属性の搾取なのかも?) (この論点、未消化につき、続く。)



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