永遠の都市なんてあるのかーーアーサー・C・クラーク『都市と星』(早川文庫SF)

永遠の都市ダイアスパー。不老不死を実現した人間が生活をしている。メモリーバンクに保存された人間は、数万年おきに、成人の姿で復活し、老いることも病むこともなく、またメモリーバンクへと戻っていく。人類は究極の定常状態を達成した。それはある意味で、人類が究極の敵とみなしてきた乱雑さ(エントロピー)の増大に打ち勝ったかのようにも思た。しかし、人々は都市の中から外に出ることは決してしないのだ。かつて銀河に進出した人類を母星地球へと押し戻した〈侵略者〉への恐怖が人々の精神に根深くあり、それに都市の外には何もないからだ。荒涼とした砂漠の他に。果たして、都市の外に出る必要はあるのだろうか?

そんな超・定常都市ダイアスパーに生まれた、「過去において生を受けたことのない人」であり、特異タイプとされるアルヴィン。彼は、なぜか、他の誰も持つことのない都市の外への興味を抱き、周囲のものと調和しない。それもそうだ。「ふつうの」人にとっては恐怖でしかない都市の外は、彼にとって興味の対象なのだ。話が合うわけがない。彼の特異性を理解できるのは、教師であるジェセラックと、そもそも〈道化師〉イレギュラーな役目を割り当てられているケドロンぐらいだ。アルヴィンは、都市の外につながる道がないものかとダイアスパーを探索する。

実にクラークらしい壮大な話である。都市とその外部の物語かと思いきや、タイトルにある通り「星」も大きく関わってくる。なぜ人類が定常都市ダイアスパーに「閉じこもって」いるのか。人類が築いたと言われる〈帝国〉やその脅威となった〈侵略者〉とは何者なのか。不老不死のダイアスパーの人間たちは、とにかく寿命(というものがあったとしてだが)が長い。数万年単位で世代が語られる。都市が究極の「凪」であるあいだ、宇宙では銀河では何が起こっていたのか。物語の最後に明かされる、人類の欲望は、その挫折とともに描かれ、しかしそこからさらにアルヴィンたちは立ち上がろうとする。結局、定常状態というのは、エントロピーには負けていないが、勝っているわけではないのだ。(1956年という昔のSFなだけあって、壮大=大味である。このへんは、好き嫌いの別れるところ)(2021年1月9日シミルボン投稿)

追記(2024年6月7日)

人間は定常状態にとどまることはできるのだろうか? 衣食住といって基本的な生命維持に必要な物資があれば、その生活に安住できるだろうか? 娯楽も必要か? であれば、どの程度までの娯楽なら満足するのだろうか? …というのは、けっこう考えている。というのも、プラトンの『国家』やトマス・モアの『ユートピア』を読むと、古今東西の理想郷は定常状態であり、そこには欲望の抑制が前提とされているからだ。過去の哲学者は哲人的理性、ひらたくいえば、「我慢する」ことで、欲望を抑圧し社会を定常状態にとどめようとする。現在のテクノロジストたちは、人間に直接働きかけることで、欲望を制御する。伊藤計劃『ハーモニー』は意識の消滅を描くが、社会の調和に不必要と判断される過度な欲望も、おそらくプログラムによって規制されるのだろう。この「欲望の抑圧」をユートピアとみるかディストピアとみるか、分かれ目になる。人間は欲望に従順な側面と、欲望に抵抗する側面の両方を、自分の内に抱えている。調和を望めばユートピアに、破滅の可能性も含めて調和からの逸脱を望めばディストピアに分岐する。社会を設計する者は、理性的に・合理的に設計し、自分以外のものはそのルールに従うことを求めるが、設計者はルールの適応外におかれる。こおの二重基準が、ユートピアの管理体制がディストピアに見える根拠だろう。

ということを、つらつらと本1冊分書いたのが、以下の新刊である。(クラークについては論じていない)


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