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祈り還し_中山可穂『弱法師』ほか

最近読んだ本
・中山可穂『感情教育』
・中山可穂『男役』
・中山可穂『弱法師』
・中山可穂『ゼロ・アワー』
・中山可穂『花伽藍』
・サガン『愛という名の孤独』
・中村文則『悪と仮面のルール』
・井上靖『あすなろ物語』
・萩尾望都『少年よ』

怒涛の中山可穂。過去最高に文学でメンタル痛めつけた期間だった。ずっと読みたくて、でも勇気が出なかった。苛烈を地でいく人で、凄絶を地でいく作品だった。
「愛とは互いの血を吸って生きることだ」と繰り返すこの人物の言葉には、重みと生が感じられた。

登場人物は都度異なるけれど、ある程度特徴が偏っていて同じテーマを書き続けるあたり、かなり執着しているのだろうなという感じがする。筆力の強さは作者が命削って書いている表れだと思うし、再三言っているけれど私は第三者を介入させない、自己中な人物と作品が好きだから、好みは別れると思うけど、私は好きな作風だ。

話が逸れるけれど、フィクションを読むとき、人は「作者と作品を重ねて読むタイプ」と「作者と作品を別物として読むタイプ」に別れるらしい。(作者≒登場人物 ではなく、作者のメッセージが作品に反映されるということにおいて)これは最近知った。私は前者の読み方しかしたこと無かったから、後者のタイプは未だに理解しきれていない。ただ、中山可穂に関して言えばかなり前者よりの読み方をさせる作品が多いと思う。良くも悪くも、作者の魂が作品に入り込みすぎているような気がする。ので、苦手な人も多いかもしれません。

話を戻します。
個人的には、能をベースにした『弱法師』の「卒都婆小町」がよかった。良すぎてもう読み返すの怖い。滅多刺しにされた。読みたいけど読みたくない、トラウマだけど大好きみたいな矛盾を抱えた作品に出会うのは久しぶりでどきどきした。

(以下、また一旦話が飛ぶ。自分の中では脈絡がはっきりしていて、一本の線の中で話そうと心がけているのだけれど、割と話が飛躍してること多い。これ、直したい)

私には怒りの感情がない。というか人間として必要な感情が欠如しているところがある。
で、一度心を開いたら、どんなことが起きても、何をされても許してしまう。幸せに生きて欲しいと祈ってしまう。それがたとえ、ともに幸せになりたいと思う自分の気持ちが報われなかったとしても。
そんな自分の感覚は、良くないものだと思っていた。別に、宮沢賢治の作品のような美しい利他の気持ちだとも思わない。
自分のエゴで、こういう気持ちでいるだけ。エゴだけど、慣れたけど、でも間違っていることでも肯定して欲しかった。

私が中山可穂の作品を狂ったように読んでいたのは、この気持ちを否定されなかったからだ。まあ一方的に傷を舐めてもらっていたということなのだけれど。
中山可穂の作品は、基本的に報われない。当事者たちは、そのことを誰よりも理解しながら、そして時に業を背負いながら生きている。
相手のためと言いながら自分の中にある相手への思いを満たしたり、自分を殺して相手をただひたすらに想ったり、周りの人間を地獄に落としながらそれでも互いを愛さずにはいられなかったり。そんな人たちばかり出てくる。冷静に見たら狂気の沙汰なのだけれど、狂ってなきゃ生きていけない世の中だから仕方ないよね〜〜あんたたち最高だよって一周まわってギャルマインドになった。

けれども、みんなちゃんと生きてた。人を愛して、たとえ自分が幸せになれなくても愛して、その結果破滅したとしても愛して、その在り方を肯定してくれたことに救われた。
以下、文章の引用と感想(衝動的でとても雑なやつ、ややネタバレ)

『ゼロ・アワー』

「やはり人は人の人生に対して無力すぎて、何もしてやれないのか」

悶絶した。分かる。何かしたいと思っても、それは自分の相手への気持ちを満たすための行為だって分かっているから結局何も出来ない。

「卒都婆小町」
「わたしはあなたの背中を見て泣いた。あなたの背中はこちら側とあちら側を隔てる壁、いかなるハンマーをもってしても打ち砕くことはできない」
分かる。無力でごめん。あなたの苦しみはあなたしか分からないのに、傲慢にも何とかしたいとか寄り添いたいとか無力だとか思ってごめん。あなたの苦しみを自分の苦しみのように置換して、あたかも共感しているように感じてごめん。

「愛はバンソウコウのようなものだし、高速道路のガードレールのようなものです。愛はタオルケットであり、食後のエスプレッソであり、梅雨の谷間の青空です。牧場で草を食む牛のようにのんびりとおおらかな気持ちで僕はあなたを愛します。あなたは喉が渇いたらいつでも僕の牧場に来て、コップ一杯のミルクをごくごくと飲み干せばいいんです」
こんなラブレター貰ったら溶ける。
こんな熱烈な手紙を送ってくる人気小説家が、自分(編集者)のために100本の作品を書くと約束してくるだけでもヤバい が、死にかけになっても書かせ続ける(書き続ける)のもなかなかヤバい。卒都婆小町の話は有名だから、この小説家が最後にどんな運命を辿るのかを知りながら読む人も多いと思うけど、それにしてもヤバい。作家と編集者の業が見事に描かれていた。魂を悪魔に売っていた。
小野小町の栄枯盛衰の物語は井原西鶴の『好色一代女』とかが有名で、いわゆる「懺悔物」と呼ばれる。この「卒都婆小町」も懺悔という形をとってるけれど、でもきっと過去に戻っても彼女たちは同じことをするだろうなぁって思った。

中山可穂の作品のテーマは「愛と業」だと思う。でもきっと、裏テーマは「祈り」だ。自分が愛したばっかりに、愛する人を苦しめてしまうという屈折した苦しみや背負う業の裏には、「愛する人が幸せで、健やかに生きられますように」というあまりにもまっすぐな祈りが込められていると私は思う。中山可穂の作品に登場する人たちは、お互いがお互いにかける愛という呪いを許し、祈り続ける人たちばかりだった。そこに、私は救われたのだ。たとえば燃え尽きて灰になった花束があったとして、その灰を後生大事に抱えて生きていく人生を私は愚かだとは思わない。

また話が逸れるけれど、最近読んだ文章のなかで、こういうものがあった。(引用元は内緒)

許すつよさは美しい。でもその美しさは辛さに付与されたボーナス評価みたいなものであって、「許す」ことそのものはべつになんにも美しくない。「世界」というマクロな視点で自分ごとを考える人間はあんまりよくないと思う。自分の精神という宇宙を抱えながらそれをまた俯瞰的に考えてばかり生きるのは辛い。
許したら、その分いっかい許されるべき。許すばかりではなく、許し許される人生を生きてほしかった。

彼女たちもそうであってほしいと思う。許した分、許されてほしい。祈った分、祈られてほしい。
少なくとも私は、中山可穂の紡ぐ物語やこの文章に、自分の今までの生き方を許された気がした。

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