ナツキ

10代で双極性障害と診断され、今までどういう風に生きて双極性障害と共に生きる選択をした…

ナツキ

10代で双極性障害と診断され、今までどういう風に生きて双極性障害と共に生きる選択をした今に至ったのかを実話をもとにしたフィクション連載小説として書いています。

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精神疾患を抱えた私なんかが普通の幸せなんて味わうことは出来ないと思っていた

19歳の夏、わたしは双極性障害だと診断された その当時の私にはネットの情報が全てだった 調べれば「双極性障害者は結婚できない」 「子供を持てない」「ただの気分屋だろ」 一番近くにいた家族の声ですらその時のわたしには届かなかった ある日、明石家さんまさんが双極性障害だという話を聞いた 検索すれば芸能人に特に多いらしい わたしはその躁の無限に有り余る気力体力を使って、今までの思いをもとに誰かの生きるヒントになる言葉を綴ることにした 結局わたしは障害に苦しめられ、障害に

    • #11 決意

      九月から後期が始まる。 辞めるか辞めないか決めないといけない。 わたしは一人家の中で一切の社会との関わりを遮断していた。 「辞めるって学校に言おうか?」 母が提出ギリギリの期限から一週間前、わたしに優しく問いかけた。 私はそこで、ベッドにうずくまりながら 「うん」 と答えた。  その瞬間はボロボロと涙が溢れた。 今までの理想の自分を演じられていたこと、皆が普通に出来ることができないこと、卒業という文字が消えてしまったこと その全てが混ざり合って自分のしでか

      • #10 大学中退

        大学時代、私はいわゆる陽キャだった。 憧れの女子大生、楽しくないわけがない。 誘われればどこにでも行って毎日遊び歩いた。 いつしか手帳をみて空いている日があると、不安になって無理やり予定を詰め込むようになった。 それで心がやっと落ち着くのだ。 リュックに着替えと使わない教科書を入れて、寝ずに三日渡り歩くのもごく当たり前。 やっと自由になれたと思った。 これが思い描いてきた大学生だ。 これが躁の始まりだとも気付かずに わたしは"大学生“というものを全く知らなかっ

        • #9 普通って何?

          病院には色んな人がいた。 歩けなくて車椅子に座っているたぶん30歳くらいの女の人で、独りでずーっと何かに怒っている。 電車によくいる怖い人そのもの。 ここの住人の中で比較的普通の私には、世間での偏見が残っていて一緒にされるのは御免だった。 だけど、そんな人にもそうなった理由が必ずあって、今となってはそういう人を理解する心が出来たから良い経験だったなぁとも思う。 ご飯とお風呂と寝る時以外ずーっと廊下を往復し続けている人もいた。 おそらく壊れてしまう前、せかせかと生き

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        精神疾患を抱えた私なんかが普通の幸せなんて味わうことは出来ないと思っていた

          #8 痴漢

          私は病院内でも常に化粧を欠かさなかった。 誰に見られるでもないけど少しでも自分に自信をつける為に。 ある日、食器を返す時間、気持ち悪い患者にケツを触られた。 あぁ、ここでは誰も助けてくれないんだそう思った。その日からカラーコンタクトを着けるのも化粧をするのも辞めた。 私は高校生の時にも二回痴漢された。 一つはよくある話だ。 もう一つは学校からの帰り道、スカートの下に手を潜り込ませて体液を塗られた。 咄嗟に悲鳴をあげ、通報した。 何度も警察に通い、履いていた状態

          #7 夫婦

          もう一人、私の好きな闘病人がいた。 よく暇があると私は一番大きい廊下の突き当たりの窓のそばに座って本を読んでいた。 そこに杖をつきながら歩いてくるおばあちゃんがきて、よく隣に座って語ってくれた。 彼女の夫も状態が悪く、別の病院に入院しているらしい。 自分がついていってあげられないことをとても悔やんでいて「情けない」と言っていた。 私はあぁ夫婦ってこういうものなんだ。 私もそうなりたいな〜と漠然と思ったりもした。 その後、二人は再会することができたのだろうか。いつ

          #6 価値観

          ご飯の時間だ。 ご飯はフロアで食べるかベッドの上か選べる。 "誰がこんな気違いしかいない病院に深入りするか"と思っていたから一人ベッドの上で食べていた。 だけど、だんだんさみしくなって人と話したいと思うようになって、フロアで皆と食べるようになった。 よく一緒に食べるおじいちゃんがいて、たぶん認知症の患者さんでよく喋ってくれた。 「この近くの黄檗山では戦争が〜」とか「宇宙ってなぁ〜」とか何回聞いてもおんなじ話だけど、世間のつまらない会話に飽き飽きしていた私はなんにも考

          #6 価値観

          #5 普通の女の子

          二週間をすぎた頃、ここを出るには大人しく先生の言うことを聞くしかないとわかった。 そこからは徐々に状態が安定し、ついに監禁病棟を出られることになった。 移った部屋は同じくらいの年齢の女の子がいる四人部屋。 まず一人目は、見た目がボーイッシュで社交性も高く、一番歴が長そうな子だった。 見た目は普通だけど時間があれば外の子と電話していて早く出たいんだろうなーっと思っていた。 こころの優しい子でお年寄りにも分け隔てなく接していて作業療法も真面目にしていた。 全て会話が聞

          #5 普通の女の子

          #4 世捨て人

          病棟に入って二週間、母に頼んでスマホを持ってきてもらった。 その時付き合ってた彼氏がいたから連絡をとりたかった。その彼の番号だけメモをしてそのまま携帯は解約した。 『あの人が絶対するなって言ってたことをしてやったからもういいねん』 その日の夕方、公衆電話から電話して別れたいと話した。 入院してるねん、その一言で全て悟ったかのようにわかった、そう言ってくれた。 泣いていて何を喋ったかまともに喋れていたかどうかすらはっきりしないけど、何も聞かないでいてくれたことが当時の

          #4 世捨て人

          #3 監禁病棟

          何もない部屋。 死ねる可能性のあるものは全て無い。カーテンもない、シーツすら敷かれていない。母が持って来てくれたパジャマのズボンの紐さえ無くなっていた。 その時の母の気持ちはどんなだっただろう。 食べたものを吐いていないか監視され、排泄物は全てチェックされる。自分で扉を開けることすら許されず、洗面をする時は看護師さんに見守られている。 毎晩、三つ隣の男の子は壁をたたいて音を出し、眠ることすら出来ない。 することといえば、窓の外をボーっと眺めることくらい。雨の日は景色

          #3 監禁病棟

          #2 帰りたい

          夜な夜な『なぁ!なんで?なんで死なせてくれへんかったん!なんで助けたん!死のうと思ったのに。次は絶対失敗せえへんから!死ぬ。絶対死ぬ。』 "ほなお母さんも一緒に死ぬわな" 『あかんで!お母さんは死んだらあかんで!まながおんねんから。うちだけや、死ぬんは』 少し落ち着いた頃、「私はいつ家に帰れるのですか?」と担当看護師に訊ねた。 おおよそ二、三日だろうなぁと予想はしつつ訊ねたら「一ヶ月です」そう怒るでもなく、優しく諭すのでもなく当たり前のように言われた。 私は愕然とし

          #2 帰りたい

          #1 忘れもしない2017/7/29

          突然仕事に行けなくなった。 それまでギリギリの所で耐えていた何かが弾け、何もかもが終わればいいと思った。 母に"もう無理"そう伝えたら、 「分かったお母さんが話してくるから」 そう言って母が仕事終わりに当時の勤務先に事情を説明しに行ってくれた。 私はそのことで何も思い残すことがなくなり、もう死んでも大丈夫そう思えた。 暗い部屋の中で処方されていて大量に余った睡眠薬と精神安定剤を飲んで意識が朦朧とする中、 ふらふらとカッターナイフを取りにいき、ベッドの上でひたすら手

          #1 忘れもしない2017/7/29