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 あまり絵を描かなくなった訳ではないが、過去の自分と比較すると描くペースは落ちている。最近はずっと映画を観たり読んでいなかった本を読んだり、大学があれば重い腰を上げて授業を受けに行っている。イアン・リードが新刊を出してたので読んでいる。
 また展示があるので結局は描かなければならないから今は別にいいかと言う感じで日々を過ごしている。展示があるから描くというのが割と自分のスタイルで、描きたいから絵を描く訳じゃないというのが前から気付いてはいたが、そういえばそうだったなと自覚する。自己表現としての絵なのか、義務感にかられて描く絵ではどうしても違いが生まれる。後者はコンテクストを考えても結局は後付で自身の純粋から来る表現ではない。自分の考えていることをどこか普遍的な理由を付けて分かりやすく形成する仕方は限りなく偽物なのかもしれない。本当は何を表現したいのかと問われても、自分の中には伝えたいこともない。日々の生活を誤魔化す為に絵を描いている。絵を描くことは生活の中に組み込まれていて、日々のバイトよりはましだから描いている。絵を描いていれば時間は過ぎ、適度に疲労して夜もぐっすり眠れる。だから描いているのかもしれない。その方が余計なことを考えずにすむから。忙しさを理由にして、考えるべき事を考えない。問題を先延ばしにする。ちゃんと人と向き合わない、そんな生活を続けているといつの間にか自分の中の歪みが大きくなっているような気がした。自分が子供の頃に思っていた格好の悪い大人がいつの間にか今の自分と重なっていくのを感じる。
 中学生の頃は隣町でも何処か遠くであった。それが今ではどこでも行けてしまう。車や飛行機に乗れば行けない場所はない。金銭的にもそれが可能になってしまった。だが、どこに行こうと子供の頃に逃避していた何処かは無くなってしまった。小さい頃に家族で行った遊園地やキャンプ場、水族館に恋人や友達と向かう。そこには昔の楽しかった思い出に溢れている。思い出を繰り返すことでこの先の私は今の思い出をまた楽しい思い出として回想する。擬似的な感情をラベリングして取っておく。騙し騙し、自分は今は楽しい、幸せであったと信じ込ませる。実際にそうであって欲しいと思いながら。その作業が連続的にあるだけで純粋に今の楽しさや幸せは思い出になる予定のもので思い出を作る為にどこかに行き続けるだけなのかもしれない。過去に目を向けすぎて、進むべき方向を定めることができずとも時間は進み否が応でも何かをしなければならない。柄にもなくわあわあと泣いてもみたいがみみっちいプライドがそれを許さず、仕方ないのでさっさと布団に入って明日がなるべく遅く来ることを願って寝る。

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