僕は二十歳の祖父と旅をする。

時間がたったので、少しだけ話をしたいなと思って書きました。

以下はマーダーミステリーに関することではなく、私と私の祖父についてのお話です。
少しだけ長くなります。


祖父が亡くなりました。90歳を超えて、大往生でした。
そんな祖父とのお話。

私は、3歳の頃まで両親が共働きだったので、ほとんどを祖父祖母の家で育ててもらっていた。

小さい頃の写真には、たくさん、祖父と遊ぶ写真が残っていた。

物心ついてからも、たくさん遊んでもらった。小学校の卒業文集の好きな人には、祖父の名前を書いていた。

そんな大好きだった祖父が、亡くなった。

私は、幸いなことに、物心ついてから親族を亡くしたことがなかった。少し前に、祖父がそれほど長くないであろうと聞いたときは、
涙が止まらかった。

祖父はそこから、とてもがんばってくれたが、ついにその日は訪れた。

祖父とお別れをしてから、祖父の遺品の整理をしていた。

そんな時、押し入れの奥から、数十枚の古い写真が見つかった。
10cm四方の、セピア色の、とても小さな写真であった。
いつ撮られたのかもわからない。祖母も知らない、祖母と結婚する前の祖父の姿。
20代の若々しい祖父が、たくさん写っていた。

友人達と記念撮影をしたり、食事をしたり、泊まった旅館を撮影したり、女性と映っている写真もあった。
その姿は、母も、祖母も知らない姿であった。

私は、祖父のことを、なにも知らない。
朝、私が祖父祖母の家に預けられると、定年退職していた祖父は、一緒に公園に行って、ジャングルジムに登ったり、三輪車を押してくれた。
わたしはそんな「おじいちゃん」しか知らない。


そこで私は、二十歳の祖父と旅をすることにした。

遺された数十枚の写真は、当時としてはとても貴重な写真であり、特に意味のないものを撮影するはずがない。色褪せてはっきりどこかわからないものもある。
でも、祖父が、どんな人だったのか。
祖父がどこへ行ったのか、何をしたのか。

それはまるで、旅行の計画をたてる時のワクワクのように、
謎解きが好きな私は、遺された祖父の写真から、祖父がどこへ行ったのかを探すことにした。

10cm四方の写真で、手掛かりはわずかであった。
祖父と一緒に写っているのは、謎の銅像や、駅舎の一部や、旅館のお庭、どこかの神社の鳥居と、断片的な情報ばかりだった。

写っている写真のわずかな情報と、当時の路線図から行けそうな場所の1940年代、50年代の写真をインターネットでくまなく探した。

すぐにはわからなかった。60年前の写真など、ネットにもほとんど存在しない。
しかし、古い記事などを探すと、一枚、また一枚と、どこへ行ったかがわかってくる。
そして、祖父が何を見たのか、何をしていたのか。

なぞの銅像は、兼六園だった。普通兼六園なら、雪吊りと撮影しそうなのに、ヤマトタケルの像と写っていた。
兼六園に何度も行っているが、ヤマトタケルの銅像があるなんて知らなかった。(日本第一号の銅像らしく、当時は今より有名だったようだ)

駅舎の一部は、豊川駅であった。同じ服装の写真で祖父が駅弁を食べており、「駅で有名なものが食べれる駅」なら、といろんな駅の昔の写真を探していたら、昭和初期の豊川駅が見つかった。

旅館は熱海の旅館であった。もう数十年前になくなった旅館であったが、同じ服装で写っていた海の写真から熱海に行ったとわかった。

どこかの神社は、つい先日行った、平安神宮だった。

金沢、下呂、豊川、大阪、福井、熱海、京都、
祖父はいろんなところに旅行に行っていた。
祖父がこんなに旅行をしていたということを、祖母さえも知らなかった。

幸いなことに、私も旅行が好きで、ほとんどの場所に旅行で訪れたことがあったので、祖父のいた場所を探すことができた。
そして、その場所の思いを感じることができた。
それはまるで、二十歳の祖父と旅をできたようであった。

私は、定年しておじいちゃんになった、祖父しか知らない。
おじいちゃんはずっとおじいちゃんだった。

でも祖父にも、友達と旅行したり、女性と遊んだりした、青春時代が勿論あって。そしておじいちゃんとして、私という孫を育ててくれたのだ。感謝しかない。

私は二十歳の祖父と旅をした。

長い文章に付き合って頂き、有難うございました。

One Eater

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