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倭・ヤマト・日本10 唐との外交と半島情勢

唐と高句麗の対立


中国大陸では隋が滅びた618年、やはり遊牧民・騎馬民族勢力である唐が覇権を握ります。

武田幸雄編『朝鮮史』によるとこの年、半島勢力は、まず新羅が唐に使節を派遣し、続いて高句麗・百済も使節を送り、三国とも柵封を受けます。ここまでは平和を志向する外交のセオリー通りです。

しかし630年あたりから、雲行きが怪しくなります。

唐は中国の覇権を固めるため、周辺の勢力を平定していくのですが、その中でも有力勢力のひとつ東突厥を服属させると、その翌年631年、高句麗に対隋戦争戦勝記念塚の破壊と、塚の中に埋められた中国側の兵の遺骨の返還を求めてきました。

この遺骨というのは、隋と高句麗の戦争で死んだ兵士の遺骨であって、唐の兵士ではないわけですが、中国を統一した唐の軍には、隋から引き継いだ軍団も含まれていて、遺骨を取り戻す必要・必然性があったのかもしれません。

唐は640年にかけてさらに次々と北方の勢力を平定していきました。中国の東北部は高句麗と境を接していますから、次は高句麗が標的になるかもしれません。これに備えて高句麗は、北方に千里以上という長城を建設して侵略に備えます。



高句麗・百済・倭の政変


唐の動きに危機感を募らせた高句麗・百済の国内では、それまでの部族連合的な支配体制から独裁的な権力へ移行する動きが生まれました。

高句麗では642年、淵蓋蘇文という宰相・将軍がクーデターを起こし、栄留王とその臣下180人以上を殺して、傀儡的な王を立てて権力を握ります。

百済では641年に即位した義慈王が新羅の西部に攻め込んで、40あまりの城と、元伽耶国の領土を占領し、その勢いに乗って支配層の中枢部にいた高官たちを国外追放。太子も廃して絶対的な権力を握ります。

武田幸雄編『朝鮮史』によると、これらの政変は、従来の部族連合による統治から、中央集権的な統治への転換を意味しているとのことです。

それまでは有力豪族の主張たちが自分たちの代表である王を決め、これを支えていたのですが、この体制では豪族間の利害対立などが絡んで、政治的な判断が遅くなります。この頃の東アジアのような対立・抗争の時代には、独裁的な権力者が即決で判断し、国を機敏に動かす必要があります。

高句麗・百済の政変は、こうした必要に沿った改革だったと見ることができるわけです。

倭国で645年に起きたいわゆる乙巳(いっし)の変、中大兄皇子による蘇我氏の誅殺も、それまでの豪族による部族連合的な体制を廃して権力を集中させ、より機動的な判断・行動を可能にするためだったとのことです。

海を隔てた倭国でも、豪族の部族連合による政治では、意思決定が遅くなったり、政権内の対立や混乱が生まれたりしますから、権力集中が必要だったのかもしれません。

しかし、その後の歴史的な展開を見ると、この改革が各国間の対立・抗争をエスカレートさせていき、高句麗・百済の滅亡につながっていったようにも見えるので、改革というのはなかなか難しいものです。



遅れた倭の遣唐使


一方、倭は630年に初めての遣唐使を送っていますから、半島の新羅・高句麗・百済が618年の唐建国と同時に使節を送って柵封を受けているのに比べると、かなり遅いと言えます。

2年後の632年に唐から返礼的な使節が来ているので、一応国交は樹立したと見ていいのかもしれませんが、次の遣唐使が派遣されたのは653年ですから、唐との行き来はそこから20年以上途絶えています。

唐と陸地でつながっている半島の三国と、海を隔てている倭とでは、大陸の政権交代に対する反応の敏感さが違うのかもしれません。

唐が建国された618年は、女王・推古の20年目で、聖徳太子も健在でした。

当時の政権には隋へ使節を複数回送った経験がありますし、607年の第2回遣隋使には、隋から裴世清という官吏が答礼使として来訪しています。

やろうと思えば唐にも同じことができたでしょうし、もう少し上手くやれたかもしれません。

それをしなかったということは、遣隋使が成果を生まないうちに隋が滅んでしまったので、懲りたんでしょうか。また戦乱が起きて、唐も短命に終わるかもしれないから、しばらく様子を見ようということになったのかもしれません。



トラブルでつまずいた唐との外交


第1回遣唐使の630年は、628年に推古が亡くなり、629年に舒明が即位した翌年にあたります。

推古崩御の前には、聖徳太子と蘇我馬子が相次いで亡くなっていて、仏教による改革プロジェクトのリーダーたちがいなくなったタイミングでもあります。

『日本書紀』には舒明が即位すると、百済・高句麗から相次いで使者がやってきて、政治情勢に関する情報をもたらしたことが記されています。

第1回遣唐使はその翌年ですから、百済・高句麗からの情報で、唐に使節を送らないとまずいかなと考えたのかもしれません。

公式使節の派遣は一大イベントでしょうから、決断した翌年に送れるものなのかなという気もしますが、あるいはもう少し前からいろんなルートで唐と半島の三国の国交や軋轢に関する情報が入ってきていて、それなりの準備はしていたのかもしれません。

この第1回遣唐使が翌々年の632年に帰国する際には、唐から高表仁という使節が同行しています。

高の使節は難波津、今の大阪の迎賓館的な施設に10月から翌年1月まで滞在していますが、倭国側の不手際で怒ってしまい、奈良の宮廷まで行って皇帝の親書を読み上げるといった、使節としての役割を果たさないまま帰国してしまったと言います。

遣唐使はスタートからトラブルでつまずいてしまったことになります。



第2回遣唐使までに起きた倭の政変


高表仁は唐に帰国後、親書を倭国の王の前で読み上げるという使節の役割を果たさなかったということで咎められたらしいので、トラブルがあったからといって、唐側には倭と国交断絶するつもりはなかったようです。

それでも第2回遣唐使が653年と、20年以上も後になったのは、その間、倭に政情不安や政変があったからかもしれません。

まず、仏教導入をリードし、倭国を実質的に支配してきた蘇我馬子と、彼と組んで倭国の仏教と国の行政を高度化しようとした聖徳太子、彼らと共に大王として国をまとめてきた推古が亡くなったことで、不安定な状態が生まれていました。

36年続いた推古の治世の後、蘇我馬子の後継である蝦夷は、次の大王に聖徳太子の子、蘇我氏の血を引く山背(やましろ)大兄皇子ではなく、推古の前に欽明・敏達・用明と続いた大王の血統である田村皇子を選びました。つまり舒明です。

しかし、蘇我蝦夷にも、山背にも、舒明にも、蘇我馬子や聖徳太子、推古のような頭脳や人徳、求心力はなく、彼らを取り巻く勢力に不満や疑心暗鬼が広がっていったようです。

643年、蘇我蝦夷の息子である入鹿は、斑鳩の宮を襲撃して山背一族を滅ぼしてしまいます。

『日本書紀』には、その後蝦夷・入鹿が大邸宅を建て、そこには渡来系豪族たちが家臣のように出仕していたという記事が出てきます。

これは大王の王朝をないがしろにする行為、あるいは蘇我氏が大王のような権威・権力を持っていることの誇示と見られたでしょう。

そこから645年の中大兄皇子(後の天智)と中臣鎌足による大極殿での蘇我入鹿惨殺、続いて蘇我蝦夷邸の襲撃・殺戮へとつながっていきます。いわゆる乙巳(いっし)の変です。



大化の改新――中央集権化と技術革新


ここから、中大兄の母である女王・皇極の退位、その弟である孝徳の大王即位、中大兄の太子就任があり、いわゆる大化の改新がスタートします。

『日本書紀』では一連の流れを蘇我氏の横暴、それを見かねた中大兄一派による誅殺として描いていますが、すでに紹介したように、この政変は高句麗・百済で起きた豪族連合から中央集権体制への転換として見ることもできます。

中国大陸と半島で起きている国際的な変化・対立抗争に、機敏に対応していくためには、豪族による合議制ではなく、国のトップに権力を集中させることが必要でした。

ただしこの場合、実質的なトップは孝徳ではなく、太子として実権を握った中大兄です。

彼が推進した改革が、蘇我馬子・推古・聖徳太子が進めた仏教を軸とした国づくりではなく、水時計など当時のハイテク装置や貨幣の鋳造、農地の国有化による税収の効率化など、もっと直接的な技術・行政改革だったのも、大陸と半島で増大する緊張と抗争を受けて、国家としての機能強化を志向したのでしょう。



大王・孝徳と太子・中大兄の対立


改革を進める過程で、中大兄は孝徳と意見が合わなくなり、652年に孝徳が難波宮に移ったのをきっかけに、2人は決裂します。

『日本書紀』を見ると、孝徳は仏教の保護に熱心で、第2回遣唐使でも多くの僧が参加しています。推古・聖徳太子時代の改革開放・仏教振興プロジェクトを引き継ぎたかったのかもしれません。難波宮に移ったのも、海外交流に力を入れる意図があったと見ることもできます。

しかし現実主義者の中大兄からは、仏教を軸とした平和外交は、唐・新羅と高句麗・百済の対立がエスカレートしていく中で、過去の遺物、時代遅れの絵空事と見えたのかもしれません。

孝徳の路線に反対の彼は都を飛鳥に戻したいと孝徳に進言しますが、孝徳はこれをゆるしませんでした。

そこで中大兄は孝徳を見限り、一族を従えて飛鳥に帰ってしまいます。官僚たちも中大兄に従ったので、孝徳は大王でありながら難波に取り残されてしまいました。孝徳は中大兄より30歳くらい年上ですが、能力も人望も中大兄に敵わなかったようです。

失意の孝徳は体調を崩し、654年に亡くなります。

中大兄は655年に母である皇極を斉明として王位に復帰させました。



タイミングが悪かった第2回遣唐使


第2回・3回遣唐使はこうした対立・政変の中、653年・654年に派遣されました。

しかし、この頃唐と高句麗・百済・新羅の関係は武力衝突へと進んでいきました。

新羅で654年に即位した武烈王が唐との結びつきを強めていくのに対抗するため、百済は高句麗と連合して新羅に侵攻、30以上の城を攻め落とします。

新羅は唐に援軍を求め、唐はこれに応えて中国・遼東の高句麗の領土に攻め込みました。

倭の同盟国である百済が唐と対立を深めていく中、第2回遣唐使を送ったのは、孝徳の主張が通ったということなのかもしれませんし、中大兄がそれを認めたのは大国である唐と交流しながら情報を把握し、的確な状況判断をしようということだったのかもしれません。

倭からは659年にもう一度遣唐使が派遣されていますが、ここから倭は唐・新羅対高句麗・百済の戦争に巻き込まれていき、唐との関係は悪化。白村江の海戦で唐の海軍と直接対決して大敗するという事態へと進んでいきます。


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