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三千世界への旅 縄文23  ヤマト王権と海の民


遠洋漁業から海賊、傭兵まで、多様な発展形


瀬川拓郎は『縄文の思想』の中で、海民の様々な変化・発展を紹介しています。

たとえば、沖縄の糸満を本拠地として活動した海民は、船や航行術の発達と共に活動範囲を大きく広げ、遠く東南アジアのフィリピンまで漁に出かけたとのこと。

また、北方のアイヌは寒い気候のせいか、農耕をあまり発展させず、寒冷期に発達した狩猟や漁撈による食料確保を続けましたが、並行して動物の毛皮や昆布などの海産物を量産して、本州や大陸との交易を行うようになりました。

また、海賊や傭兵も彼らの生業のひとつになったといいます。

中国の元王朝の時代、日本で言うと鎌倉時代には、大陸からサハリンへアイヌ海賊の討伐軍が派遣されています。

戦国時代末期の1591年には、全国制覇の仕上げとして行われた東北討伐で、岩手・九戸城の戦いというのがありましたが、アイヌは討伐軍と九戸側の両方に傭兵を派遣して稼いだとのこと。

九州北部の松浦を拠点とした海民も、海賊として有名になり、松浦党と呼ばれていたようです。

鎌倉・室町時代には朝鮮半島から中国沿岸を荒らしまわり、中国側からは「倭寇」「和寇」と呼ばれていました。

ただ、「倭寇」として討伐された海賊には中国人のリーダーがいたりして、この頃になると必ずしも倭人・日本人の集団とは限らなくなっていたようです。

海民も活動範囲を広げるにつれて、大陸・半島の集団と結びつくようになっていったんでしょう。


阿曇氏と海民


時代がかなり下って、話が鎌倉・室町時代まで行ってしまいましたが、古墳時代からヤマト王権確立の時代にかけて活躍した海民・海人に、阿曇氏という集団がいます。

『縄文の思想』では、阿曇氏イコール海民ではなく、ヤマト王権のために配下の海民を動かした一族という感じで紹介されています。

阿曇氏はやはり九州北部を本拠地とし、交易や戦闘などを得意としていたといいますから、元々は松浦党や倭寇の源流と重なる部分があるのかもしれません。

長野県に安曇野という地域がありますが、ここはヤマト王権に貢献したご褒美として阿曇氏が土地を与えられて入植した土地だとされています。

この安曇野には阿曇氏の祖先神を祀る穂高神社があり、北アルプスの麓にある神社なのに、祭りでは船の山車を曳くことで有名な神社なのだそうです。

穂高と言えば、日本で三番目に高い北アルプスの奥穂高岳を中心とした穂高連峰が思い浮かびますが、阿曇氏の祖先神であるホタカノミコトはそもそも海の神とのことです。


ヤマト王権の司令官


海民である阿曇氏はヤマト王権にどんな貢献をしたんでしょうか?

考えられるのは海上交易で倭・ヤマトに大陸や半島の先進技術や器具をもたらしたり、半島・大陸との外交に必要な船団を用意して、航行をマネジメントしたりといったことです。

飛鳥時代の後期になると、阿曇氏はもっと政治的・軍事的に高度なところで、ヤマト王権と関わっていたようです。

『日本書紀』の天智天皇の巻の初めの方に、阿曇比邏夫連(あずみのひらぶのむらじ)という人物が出てきます。

比邏夫というのは軍の将軍とか司令官みたいな役職、連というのは朝廷の大臣的な高級官僚・政治家に与えられる姓(かばね)、称号です。


天皇の代理?


『日本書紀』によると、この頃朝鮮半島で新羅がヤマトの同盟国である百済に侵攻して政権を崩壊させ、残った百済の王家とその家臣団は、逃亡して別の場所で再起を図ろうとしていました。

彼らはヤマトに助けを求めて来たので、朝廷は百済から預かっていた王子・豊璋を百済に返して、国王に即位させ、ヤマトから援軍を送ることにしました。

半島遠征を指揮するため、斉明天皇(中大兄皇子・後の天智天皇の母)が福岡に移動しますが、病気で崩御し、中大兄皇子は天皇の代わりに福岡に入り、遠征軍を見送ります。

このときの軍の指揮官として初めに名前が出てくるのが、阿曇比邏夫連です。前軍の将軍大花下阿曇比邏夫連という肩書きになっていて、後軍の将軍は大花下阿倍引田比邏夫臣(あべのひけたのひらふのおみ)ですから、軍のツートップみたいな感じです。

少し後に将軍大錦中阿曇比邏夫連という司令官が出てきて、軍船170艘を率いて豊璋を百済に送り、天皇の勅によって豊璋を百済の王に就かせ、百済再興のために活躍していた高官/軍人・福信の背中をなでてその功績を褒め、爵位や禄物を賜った。人々はこれを見て涙を流したというくだりが出てきます。

司令官というより、まるで天皇の代理みたいです。

「将軍」に続く肩書きが「大花下」から「大錦中」に変わっているので、別の人物という可能性もありますが、同じ人物の位みたいなものが、現地で天皇の代理を務めるために格上げされたのかもしれません。


ヤマトによる半島侵攻


阿曇氏はいつからどのようにして、ヤマト王権でこんな大物になったんでしょう?

『日本書紀』には、神功皇后が太陽の光を浴びて妊娠し、後の応神天皇を身籠ったまま九州から朝鮮半島に渡り、百済や新羅を征伐する話が出てきます。

これはヤマト側に都合のいい脚色だとしても、高句麗の広開土王碑文に古墳時代の5世紀に倭人が海を渡って百済・新羅に攻め込んできたのを広開土王が撃退したという記述がありますから、倭・ヤマトからの半島侵攻はあったんでしょう。

海を渡って攻め込むわけですから、大掛かりな船団と兵力が必要です。

阿曇系の海民がこれを提供したとしたら、彼らは軍事的にかなりの貢献をしたことになります。

信州の安曇野は、阿曇氏の少なくとも一部の勢力が、そうした功績によって領地を与えられたということを物語っているのかもしれません。

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