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三千世界への旅 縄文21 「海の民」


廊下に置かれた丸木舟のレプリカ


加曽利貝塚遺跡の博物館には、丸木舟のレプリカが展示されていました。
実物ではないからか、廊下に地味な感じで置かれていました。

解説も小さなパネルで簡単に説明してあるだけです。

それでも木を削って造ったものらしく、素人の僕にはけっこうリアルに見えました。

出土した状態を忠実に再現しているからか、前後が破壊されたみたいになっていますが、現役で使われていたときはちゃんと舟のかたちをしていたでしょう。

真ん中より少し後ろに座席みたいな隆起がありますが、これに座って櫂で漕いでいたんでしょうか。

座席が一カ所しかないということは、1人乗りなんでしょうか。


カヌー的な見た目


丸木舟は1本の木をくり抜いて造るんでしょうから、自然と大きさは限られてきます。

舟の製造技術についてはほとんど知識がないので、詳しいことはわかりませんが、縄文時代は金属器がなく、石器で木を削っていたようですから、板を貼りあわせてもっと大きくて安定のいい船を造ることはできなかったでしょう。

中はけっこう浅くて、バランスが悪そうです。

この1人乗りカヌーみたいな丸木舟で、縄文人はどんなことをしていたんでしょうか。

流れがおだやかな川やあまり波のない海で魚をとったり、そんなに大きくないものを運んだりはできそうです。

漁をするなら、何人かで組んだ方がよさそうですが、1人1艘ずつ乗ったとしても、何人か集団で行動していたのかもしれません。


侮れない縄文人の操船能力


気になるのは、どのくらい遠出できたのかということです。

縄文時代の舟は主に川や湖、海の入江で使われ、外海にはあまり出なかったと書いてある本もありますが、北陸の縄文遺跡ではイルカの骨がたくさん出土していて、組織的なイルカ漁が行われていたと言います。

青森の三内丸山遺跡からはマグロなど大型の魚の骨が出土していて、この地域の縄文人たちが海に出て大型の魚をとっていたことがわかります。

縄文人はイルカを追い込むのに必要な漕ぐ力も、波の上でバランスをとる能力や、揺れる舟の上でモリや釣り針や網で漁をする技術も、我々の想像を超えるレベルだったのかもしれません。


見える範囲の島なら渡れた


また、伊豆諸島の神津島で採れる黒曜石がかなり広範囲で出土しているので、海を渡って採石する人たちがいたと推測できます。

地図で見ると、本土から神津島までは、伊豆半島からでも60kmくらいでしょうか。けっこうな距離です。

黒曜石・ヒスイの展示にあった地図の拡大

水ノ江和同の『縄文人は海を越えたか?』は、縄文人が海を渡った痕跡と、その距離を研究した本ですが、それによると日本列島のほとんどの島は渡ることができたとのこと。

九州から朝鮮半島やその手前の対馬、沖縄諸島から宮古島などの先島諸島は遠すぎたようですが、山や丘に登って見える範囲の場所なら行き来できたと言います。

縄文人は持久力も相当なものだったのでしょう。

少しずつ海面が上昇したとしたら


彼らはどのようにそうした能力を身につけたんでしょうか?

まず、4万年〜3万年くらい前、東南アジアから彼らの祖先が渡ってきたとき、地球は寒冷期で氷河や氷の量が多く、海面は低かったので、今の日本列島は大陸・朝鮮半島から歩いて渡れたといいます。

そして18000年くらい前、つまり縄文時代が始まる少し前から地球が温暖化して海面が上昇だしました。

陸続きだったところが徐々に海で隔てられていったとすると、彼らは最初のうち泳いだり丸太に乗ったりして行き来を始めたかもしれません。

今発見されている縄文時代の最古の丸木舟は約7500年前のものだと言います。

海面上昇から何千年あるいは1万年くらいかけて、丸太を削って丸木舟を造り、それに乗る技術を生み出し、洗練させていったとすると、彼らが達人のレベルに達することは可能だったかもしれません。


海の民の誕生


僕が縄文人について特に興味を持っていることのひとつが、彼らの一部がどのように専業の漁民、いわゆる「海の民」になっていったのかということです。

前に紹介したように、縄文人は川や海で魚介類もとれば、山で動物を狩り、木の実や草の実も採集し、時代と地域によっては積極的に植物を育てるなど、マルチな食料確保を行う人たちだったとされています。

しかし、瀬川拓郎の『縄文の思想』を紹介したとき触れたように、弥生時代に平野で水田耕作が始まると、海や川と山が一体化していた縄文の世界から海が分断されます。

設楽博己の『縄文vs.弥生』によると、関東の三浦半島で、季節によって海で漁を行った弥生人の遺跡が発見されているとのことなので、弥生時代にも半農半漁の人たちはいたのかもしれません。

設楽によると、縄文が舟でモリや釣り針を使って魚をとる攻めの漁業だったのに対して、弥生は定置網やヤナなどでやってくる魚をとる待ちの漁業になったとのことです。

しかし、『縄文の思想』によると、弥生時代になると東北の三陸や北陸、九州北部、沖縄などで、漁業と海運業を生業とする集団が形成され、北海道のアイヌと交易したり、日本列島を股にかけて大規模な漁や交易を行ったりするようになったといいます。


貝のアクセサリーが語る弥生時代の交易


農民が海辺で漁も行う半農半漁も、舟の製造・操作に長け、長距離を移動して大規模な漁や長距離輸送を行う「海の民」型の活動も、どちらもあったのかもしれませんが、ひとつ専業化した海の民の活動を裏付けるものに、全国の弥生遺跡で出土する貝輪があります。

加曽利貝塚遺跡博物館の貝輪。BS-NHKの「追跡!古代ミステリー 海の縄文人」によるとオオツタノハというのが、南の海でとれる特に美しい貝なのだそうです。ということは、縄文時代にも南からはるばる関東まで運ばれていたんでしょうか? もしかしたら縄文中期は温暖期だったので、南海の貝がこの近くでもとれたのかもしれません。

貝輪とは大きな貝殻に穴を開けて手首に通せるようにしたブレスレットです。

貝輪は加曽利貝塚遺跡からも出土していますから、縄文時代から造られていたようですが、弥生時代になると沖縄など南海の美しい貝で造った貝輪が広く日本列島で見られるようになりました。

BS-NHKの『英雄たちの選択』というシリーズでも「追跡!古代ミステリー 海の縄文人」の回で紹介していましたが、この貝輪の流行が「海の民」の活動を物語っているとのことです。

『縄文の思想』では、日本海側の「海の民」の中に、北海道に拠点を構築していた人たちがいたことが紹介されていますし、弥生時代に朝鮮半島からまず九州北部に伝わった水田耕作が、他の地域を飛び越して青森に伝わった背景にも、海の民の存在があるのではないかとしています。

長くなったので、続きはまた次回。

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