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三千世界への旅 倭・ヤマト・日本3  東アジアの民族大移動

大陸で起きた民族大移動


古墳時代に朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた様々な勢力による、軍事・政治闘争がどんなものだったのか、そこからヤマト王権、後の大和朝廷がどのように誕生したのかについて考えていく前に、なぜ古墳時代に弥生時代よりも多種多様な民族が中国大陸や朝鮮半島から日本列島に押しかけてきたのかについて考えてみます。

まず、日本列島から少し視野を広げてみると、紀元4世紀から5世紀にかけて、中国に遊牧民・騎馬民族の大規模な流入があったことがわかります。

この時代は地球が寒冷化し、北方地域に暮らす遊牧民の生活が脅かされた時期でした。

モンゴルや中国東北部から色々な遊牧民・騎馬民族が次々と南下してきて、中華平原の一部に国を立てる時代が続きました。この時代は中国史で「五胡十六国」の時代と呼ばれています。

「五胡」とは匈奴、鮮卑など中央アジア・モンゴル・中国東北部に勢力を拡大していた5種類の遊牧民・騎馬民族の総称です。この頃、これらの民族は遊牧民・騎馬民族の国を建てては漢民族の反撃にあって滅び、また別の騎馬民族が国を建てるといったことを繰り返していました。

中国は北半分のいわゆる中華平原だけでも広大ですが、この時代はこのエリアを統一的に統治する国家が生まれず、部分的に統治する国家が複数併存したり、その一部が滅んでは別の国家が建設されたりといった、いわば混乱状態にあったようです。

こうした不安定な状態の中、中国・朝鮮半島では、騎馬民族に押し出されるかたちで、様々な民族・部族が南へと移動し、大陸・半島にいられなくなった勢力が日本列島に渡ってきたのかもしれません。

それが弥生時代から古墳時代へ倭国が大きく変化した理由だったと考えられます。


遊牧民・騎馬民族は海を渡ってきたか


僕が以前から興味を持っているのは、この古墳時代に渡ってきた勢力の中に、遊牧民・騎馬民族がいたのかどうかです。

彼らは中華平原に侵入してこの地域を一時的・部分的にせよ制圧した勝利者ですから、必ずしも海を渡って日本列島に活路を見出さなくてもよかったと考えることができます。

危険を犯して海を渡らなければならなかったのは、遊牧民・騎馬民族に押し出された大陸の旧勢力だったでしょう。

しかし、五胡十六国時代は五つの遊牧民・騎馬民族と漢人の様々な勢力が栄枯盛衰を繰り返した時代ですから、遊牧民・騎馬民族の中にも敗者になって、土地を離れなければならなかった勢力がいたかもしれません。

そうした勢力が海を渡って日本列島にやってきた可能性はあるでしょう。


騎馬民族征服説?


遊牧民・騎馬民族は馬を乗りこなす技術だけでなく、鉄器の製造技術にも優れていて、それが彼らの軍事的な優位を支えていたと言いますから、彼らが日本列島にも渡ってきたとしたら、馬や鉄器の技術で大陸や半島より遅れていた倭人はあっという間に征服されてしまってもおかしくないんじゃないかという気もします。

日本史の世界でも、かつて江上波夫という考古学者が1948年に「騎馬民族征服説」を発表して話題になったことがありました。僕も若い頃に彼の本を読んだことがあります。

たしか倭の五王は朝鮮半島経由で渡ってきた騎馬民族で、日本列島を支配していた勢力を征服して新しい王朝を立てた。征服王朝なので圧倒的な力を誇示するため、大阪平野に巨大古墳を築いた。それが応神・仁徳・履中天皇陵と呼ばれている古墳であるといった内容でした。

1948年は日本が戦争に負けて、明治以来からの天皇制や、天から降りてきた神の子孫が天皇だといった、いわゆる「皇国史観」に疑問を抱く人が少なからずいた時期です。

『日本書紀』に書いてあることをそのまま史実と解釈すると、天皇制が2600年前から続いていることになってしまうなど、色々おかしなことになってしまうので、広くアジアの文献や考古学的な研究を踏まえて、日本という国がどうやって成立したのか考えてみようというひとつの試みとして、江上波夫の騎馬民族征服説は提案されたのでした。


江上波夫説の疑問点


江上は京都大学の名誉教授になった考古学者ですから、その騎馬民族征服説は民間の素人が根拠なく妄想したトンデモ学説ではなく、中央アジアの古墳など騎馬民族の足跡を考古学的に調査した成果を基に考えられた説でした。

しかし、騎馬民族征服説は様々な学者たちに批判され、日本古代史でメジャーな学説、定説にはならないまま、忘れられていきました。

これが天皇制を脅かすような学説を嫌う政府や学界の保守的な体質によるものなのかどうかはわかりませんが、その後の研究でわかってきたことも踏まえて考えてみると、江上の騎馬民族征服説にはいくつか無理な点があるような気がします。

ひとつは、倭の五王によって造られたとされる巨大古墳が、騎馬民族が大陸・半島の各地で築いた円墳ではなく、弥生時代末期の邪馬台国の時代から造られていた前方後円墳だったことです。


前方後円墳と円墳


前方後円墳が方墳と円墳を合体させたものだから、方墳・円墳が先にあったと考える人もいるかもしれませんが、弥生時代にはすでに円墳をもっと低く平べったくしたような台に、細い直方体の台をくっつけた複合型の塚が造られていたことがわかっています。

この塚は墳墓であり、宗教儀礼の施設でもあったようですが、前方後円墳はこの弥生時代の塚の発展形でだと、最近の古代史学界では考えられているようです。

古墳からたくさん発掘されている埴輪には、武人や馬、家など色々なものが表現されています。

弥生時代からの王族・豪族が、騎馬民族に征服されなくても、半島・大陸との交易によって馬を手に入れ、乗りこなすようになった可能性もありますから、弥生時代になかった馬が埴輪でかたどられているからといって、特に騎馬民族による征服の証拠とは言えない気がします。

埴輪は土を固めて素焼きした素朴な製品ですから、それ自体も文化的には弥生時代からの発展形と見ることもできます。


単純な騎馬民族の征服はなかった


もうひとつ、江上の騎馬民族征服説の欠点は、古墳時代に大陸・半島から日本列島に渡ってきた異民族を単純化し過ぎていることです。

江上は中央アジアで行った騎馬民族関連の遺跡の発掘調査を踏まえて、中国の五胡十六国時代に騎馬民族が中国北部から侵入して国を建てた流れで、倭の古墳時代にも騎馬民族が日本列島に渡ってきて、倭を征服したと考えたわけですが、最新の遺伝子解析は古墳時代に日本列島に渡ってきた異民族がひとまとまりの騎馬民族ではなく、様々な大陸・半島の地域からやってきた、もっと多種多様な勢力だったことを明らかにしています。

それら多種多様な勢力は、馬を育てて乗りこなす技術を持っていたでしょうし、倭人よりは優れた鉄器を製造・使用していた可能性がありますが、それぞれは少数の勢力であり、各地にバラバラに入植し、それぞれの政治的・経済的・社会的勢力圏を構築したでしょう。

その中には遊牧民・騎馬民族もいたかもしれませんが、だからといって中国北部や朝鮮半島北部を征服した遊牧民・騎馬民族の一部が、圧倒的な軍事力を持って日本列島に攻め込んできて征服したといった単純な侵略・征服が可能だったとは言えない気がします。

なぜなら、古墳時代人の多様な遺伝子構成が物語っているのは、まず渡来勢力による日本列島各地にパッチワーク状の勢力圏が構築され、そこから勢力争いによるシャッフルを経て、新しい倭国が誕生したのではないかということだからです。


倭人・倭国の継続性


それではこの多様な渡来勢力のパッチワーク状態から、どのような変化を経て、新しい倭国は誕生したのでしょうか?

ひとつの大きな謎は、中国の歴史資料で弥生時代の倭人・倭国という民族・国家名が、古墳時代にも継続的に使われていることです。

中国側は『魏志倭人伝』の邪馬台国・卑弥呼の時代も、『宋書倭国伝』の五王の時代も、当時の日本列島に住む人たちを倭人、彼らの国を倭と認識しているわけです。

そこからふたつの疑問が生まれます。

ひとつは、古墳時代に大陸・半島から多種多様な勢力が列島に渡り、渡来勢力の人口比率が急激に高まったこと、つまり弥生時代の倭人は古墳時代の倭人ではないということを、南宗の政府は認識していなかったのかということです。

もうひとつは、倭人の国家体制が、弥生人による連合国家から、多様な渡来勢力の抗争を経て、新しい統一国家へと移行したのに、南宋政府はこれを同じ国家・政体が継続していると見ていたのかということです。


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