倭・ヤマト・日本11 半島の紛争と白村江の敗戦
半島のバトルロワイヤル開始
倭国で乙巳の変、大化の改新によって、中大兄による権力掌握、部族連合から中央集権国家への変革が進んでいる間に、半島でも前に少し触れた高句麗・百済・新羅の変革が行われ、決断力・行動力のある新しい王や宰相・将軍が実権を握るようになりました。
この変革は権力を集中させた新しいリーダーたちによる戦争の時代の幕開けでもありました。
戦争が始まったのは、好戦的なリーダーが誕生したからというより、三国間のバランスが変わったからということのようです。
元々は先に建国された高句麗の力が大きく、そこから分かれた部族によって建国された百済と新羅は小国だったので、三国の間にはある程度のバランスが維持されていました。
しかし5世紀後半から6世紀にかけて百済が力をつけ、これに対して新羅も両国の間にあった伽耶・加羅など小国分立地域を制圧、三国のパワーが以前に比べて拮抗するようになったため、緊張が高まっていきました。
この緊張の高まりが、三国の変革、権力の集中をもたらしたと言った方がいいのかもしれません。
まず641年、百済の義慈王が新羅を侵略したのをきっかけに、バトルロワイヤル的な戦乱状態が始まり、窮地に陥った新羅は高句麗に助けを求めましたが拒否され、643年やむをえず唐に出兵を要請。唐は645年、皇帝・太宗自ら水陸10万の軍を率いて出兵しましたが、高句麗はなんとか大軍の攻撃に耐えました。
新羅のしたたかさ
これに先立って、新羅では唐に対する外交路線をめぐって対立が起きています。
唐の太宗は、643年に新羅が助けを求めてきた際、新羅の善徳女王による統治を問題視し、唐の皇帝一族を王位につけることを迫りました。
前に倭国の女王について書いたとき、新羅にもこの時代に女王がいたことを紹介しましたが、これが唐の援助を得るのに障害となったのです。
唐の母体は元々北部の遊牧民・騎馬民族で、部族連合による統治がされていた時代には、特に王は男性でなければならないという規律はなかったと思われますが、中国は歴史的に王・皇帝は男性でなければならない国でした。
中国を平定し、中国の帝国として統治していかなければならない唐にとって、男性による統治という中国の伝統を守ることが重要だったのでしょう。
このとき新羅では唐の要求に応じて女王を廃位させるべきだとする一派が反乱を起こしました。
善徳女王は反乱の最中に死去しますが、当時実権を握りつつあった王族の有力者、金春秋は反乱を鎮圧すると、あえて真徳女王を即位させます。
ただ唐に服従すると、高句麗・百済との抗争に勝てても、見下されて後々窮屈な支配関係に陥ってしまいますから、金春秋としては唐と同盟関係を維持しつつも、内政については自主独立路線を貫こうと考えたようです。
唐もこれを容認したようですから、彼の読みは正しかったことになります。
小国は大国に対して立場が弱くても、主張すべきことは主張することで、ある程度利益を確保することができます。
我々は大国に対してどう自己主張するかが、小国の生き残りを左右することを、この先大国・唐と小国の高句麗・百済・新羅・倭の対立や駆け引きの様々な局面で見ることになります。
さしあたって唐との関係の危機を乗り切った金春秋は654年、王位について武烈王となります。名実ともに新羅のリーダーになった彼は、唐との関係を深めながら、百済・高句麗との戦いを進めていきます。
百済の滅亡と倭の参戦、白村江の大敗
前にも触れましたが、武烈王即位の翌年・655年に、新羅が唐との結びつきを強めていくのに焦った高句麗・百済は連携して新羅に侵攻しました。
これを受けて新羅は唐に援軍を求め、唐は中国大陸側の遼東地方にあった高句麗領を攻撃します。
さらに660年、唐は百済を攻めるため、水陸10万の軍を派遣。これと呼応して新羅は5万の軍を送って百済を挟み撃ちにします。この攻撃で百済の王都を落とし、義慈王と太子・隆らは捕えられて唐の洛陽に連行されます。
こうして百済は滅亡してしまいました。
さらに唐は翌661年から水陸35万の軍で高句麗に侵攻します。
百済滅亡の知らせを受けた倭は、大軍を組織し、百済から預かっていた王子・豊璋と共に半島へ送りますが、すでに紹介したように663年、白村江の海戦で唐の水軍に大敗してしまいます。
なぜ勝ち目のない戦い挑んだのか?
後から考えると、唐のような超大国の軍事力に勝てるわけがないので、中大兄/後の天智天皇はなぜそんな無謀なことをしたんだろうという気がします。
さらに彼の死後、壬申の乱が起きて権力を握った大海人/天武天皇によって、唐との国交回復、唐の文化を大々的に受け入れ、仏教をベースにした国づくりが行われて、その後の古代日本のシステムが構築されたことを考えると、中大兄は優れたリーダーではなく、百済との関係に固執して判断を誤った頑固者であり、彼と対立して仏教路線や遣唐使にこだわった大王・孝徳の方が先見の明があったというふうにも見えます。
しかし、半島で起きたことをもう少しクローズアップして見ると、また違ったものが見えてきます。
政治というのは、ひとつの局面やひとつの軸から見ると、愚かに見えた決断が、視点を変えて見ると、オセロゲームのように白黒が次々ひっくり返ることがあるのです。
百済再興運動と唐の甘さ
660年に百済が滅亡した後、旧百済領内の各所で百済復興の動きが起きていました。つまり唐と新羅の連合軍が百済を完全制圧してしまったわけではなかったようです。
唐としては、国境を接する高句麗を制圧する方が大事なので、大軍をそちらに派遣していますから、唐軍による旧百済領の統治には隙があったのかもしれません。
唐は旧百済領に五つの都督府を設置し、唐の軍による統治領としましたが、そのうち熊津都督府は百済人に統治させることにしています。
このあたりにも、唐の百済人に対する処遇の甘さが垣間見えますが、国を滅ぼされた百済人としては、熱狂的な愛国心によって、唐への反乱、国土奪回へと突き動かされたでしょう。
現に661・662年に倭国軍が半島に渡り、旧百済人勢力と合流すると、663年旧百済領内から新羅軍を駆逐することに成功しています。
661年には、新羅の優れたリーダーだった武烈王が突然死去し、これも新羅にとっては大きなダメージだったかもしれません。
つまり倭国軍が半島に渡った時点では、百済を再興できる可能性はそれなりにあったのです。
複雑なドタバタ劇
しかし、百済勢力も統率が取れていなかったようで、重臣同士の争い殺戮が起きたり、倭国側が連れていった百済王子・豊璋が、最も優れた重臣で、再興運動のリーダー的存在だった福信を殺してしまったり、混乱が起きています。
倭国軍が唐との戦いに勝っていれば、倭国主導での百済再興もあり得たかもしれませんが、倭国の水軍も現地の状態をよく把握しないまま唐の大軍とぶつかることになり、船が浅瀬で座礁したりして自滅し、あっさり敗北してしまいます。
こうした経緯を見ていると、国の政治や国家間の抗争というのは、それぞれの勢力・プレーヤーに強みや弱みがあり、見えているものと見えていないものもあって、いろんな要素が絡み合い、偶然やミスが重なりながら、ドタバタ劇のように展開していくものなんだなと思います。
建国から間もない唐は、国境を接している高句麗のほか、北方・西域の遊牧民・騎馬民族勢力で帰順しない勢力も存在するという問題を抱えていましたし、新羅は武烈王の突然の死で優れたリーダーを失い、大きなダメージを受けていました。
倭の中大兄には、果敢に戦えば百済再興の可能性はあると見えていたのでしょう。
しかし、倭側にも再興をめざす百済勢力が意外とバラバラだったり、倭から連れていった王子・豊璋が愚かで、重要人物である福信を疑って殺してしまったり、倭の水軍が意外にポンコツで、自滅に近い負け方をしたりといった誤算がありました。
こうした想定外の出来事がそれぞれのプレーヤーに起きたことも含めて、事態は倭国軍の敗北、百済滅亡の確定という結果になったわけです。