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たくさんの読まれない記事から学べた、書くことの意味


どうもどうもこんばんは。
今日は多少手間をかけていたスライド発表をしてきた。正直課題しか残らないほどの出来ではあったが、たくさんの収穫もあった。また精進していきたいと思う。

ともかくこれで、時間ができたので遠慮なく本に打ち込める環境ができたわけだ。ということは「どうにかして坂の上の雲を読め」ということになる。なにせ積読が部屋を圧迫しているからだ。

話は変わる。

毎回「ふと思ったが、」から始めているこのnoteだが、「文章を書く」ということを仮に毎日してみたとして、一体何が見えてくるというのだろうか。
最近、そんなことを考えるようになった。要するに、「文章を毎日書くことに、なんの意味があるの?」ということである。

私の文章を書くことの目的の一つに、「ほかの人とコミュニケーションを取ること」というのがある。自分の書いた文章を読んでもらって、「あれあれはどうだった」とかそういう感想をもらいたい。もちろん至らないところもたくさんあると思うから、そこは指摘をいただきたい。

けれど現実は簡単にいかない。毎回毎回、自分なりに丹精込めて描いた文章でさえ、ほとんど人に読まれずネットの海に埋もれてしまう。「こんな表現使ってみたけど面白いかな......うーんそうでもないかな?」とか「この表現はほかの人を傷つけてないかな?けどちゃんといわないと読んでいる人には伝わらないし.......」とか無限に考えているのに。

そんな誰もみてくれない文章でさえも、いつか誰かが見てくれると信じて、それでも投稿し続け、判断を仰いでいくしかないのだろうか。

恥ずかしいことこの上ないのでこんなことは今後二度と書かないだろうが、実は私が投稿している文章にはそれなりに自信を持っていて、誰かの心には刺さるだろうと思っていたのだ。

それなりに長くやっていれば(と言ってもまだ半年間、しかも時々)、なんらかのリアクションのひとつや二つほど欲しくなってくるのが人情というもので、今までほとんど反応をもらえなかったのはかなり心にはきている。
なんとなく、社会という途方もなくでかい、しかも曖昧なものに、「おまえの文はつまらない」という反応を毎回されている感覚で、それが続くと「私の書いたものはいったい誰が読んでくれているんだろう」という気持ちになってくるのだ。

ライターの糸井重里さんがどこかで言っていた「とりあえず、毎日書きなよ」のという言葉の中には、そんなどうせ誰も読んでくれない文章をそれでもみえない他人にみせ続けることさえ、含まれているのだろうか。今や自分で見てさえ、自信をなくしかけているというのに。

それでも書き続けたいなら、「最低限人に見せても耐えうるレベルの文章だ」と、自分だけでも思って書き続けることにこそ、文を書く意味があるのだろうか。死んでも書く、人に見せても恥ずかしくならないために全力を注ぐ、今できる全力をここに叩き込む。

.......

たぶん、そういうことを絶え間なく、長く、しつこく、歯を食いしばってでも、繰り返していくことにしか、成長はないのかもしれない。

だからたぶん、地べたに這いつくばって、「これがいいか、どれがいいか......」と小1時間悩んで、記事を公開するときになって「えーこの表現大丈夫かな......」とか思うこと、それらは絶対に無駄になってない。そういう悩みの積み重ねこそ、今の、そして将来の私の文章を作ると確信している。

いつになったら目標を達成できるかはわからない。なんなら、普通に無理かもしれない。それでも、多少書くことにハマっているつもりなら、書き続けることにする。また迷った時は、そのことを記事にでもしようかな。


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