探偵の目は、文学の目

大学生の頃、よく友人と一緒に「探偵ごっこ」をして遊んだ。
これは誰にでもできる簡単な遊び。

例えばスーパーのレジに並んでいるとき、前のおばさんのカゴの中に、牛肉、人参、たまねぎ、じゃがいも。これらの商品が入っていたとしよう。きっと今夜の夕食はカレー。そこにルーが入っていれば動かぬ証拠。
そんな風に、目の前を行く人の身なりや仕草など、小さなヒントからその人の向こう側にある背景を推理する。そんな遊び。
これは、文学的想像力を試すために始めた小さな遊びだったけれど、今日でも想像力の源泉を見出すものとして、大いに役立っている。
正解でなくてもいい。重要なのは、現在との整合性と関心をそそるドラマ。見るものは人でなくても構わない。絵画、映画、漫画のコマのなかにある作者の小さなこだわり。なんだっていい。そして、そこから物語が見えれば、あなたの勝ち。

実際、かつての貴族たちがなぜ過敏なほどに服装や装飾にこだわったかといえば、また現代においてもスーツや靴の汚れ一つにも気をつけるのかといえば、それは他人が自分の身なりを見たときに、その向こう側に勝手な想像力を働かすことへの警戒に他ならない。

これだけ偉そうに述べておいて、僕はシワだらけのシャツとサンダル姿でよく近所を徘徊しているけれど。
さらには、身なりで決めつけるなら好きにしろよと開き直って、わざとジーパンとTシャツで会議や商談に出向いたりするけれど。

まあ、大演説の説得力を損ねるのはこれくらいにして、一つ。

舗装もされていない、何度も人がその上を歩いてその形を成しただけというような土と砂利の道を、二頭の牛を連れた、がっしりとした体つきの女性が歩いている。
籠に入れた大量の花を頭の上に乗せ右手でささえて、左手は脇にいる少女の肩に添えられている。その手は優しくあれど、先を急かすように、すこし押すような力を感じる。
少女もまた、籠に入ったものと同じ花を一束だけ左手に持ち、右手は編んだ長い髪を気にしている。二人の髪は同じ黒。
二人とも身なりは決していいとは言えない。布を繋いだだけというような、簡素な服を着ている。

そんな情景に立ち会った時、何が見えるだろう。
服装からみて、いかにも労働者階級と思える。二人はきっと親子だろう。髪を気にする少女は、まだ自分のおかれた環境を飛び越えて、華々しい未来、明るい思春期の夢想のなかにいるのだろう。
母親の頭上に乗る大量の花は、彼女の労働を指し示すものに映るが、少女の手にある同じ花は、ブーケのように華やいで見える。
だけれど母が急かすその腕の、優しいが確かな力は、足早に思春期を過ぎ去り、労働に立ち向かわなければならない彼女の未来を指し示す。
きっとこの世界で生きるには、それがもっとも確かな方法なのだろう。
そんな風に空想する。
これはあくまで主観であって、正解というわけではない。

実はこれ、パブロ・ピカソの絵画を見たときに感じたこと。
フィラデルフィアの、バーンズ・コレクションで鑑賞したと記憶しているけれど、タイトルも覚えていない。ただ、その絵画の前に座りこんで、じっと思い描いたイメージだけが鮮烈に残っている。
本当は画像を探したのだけれど、見つからなかった。

こんな風に、一つ一つのシンボルに空想の背景を押し広げてみると、それが絵画であっても音楽であっても、ただ目の前を通りすがった人の姿でさえ、何かしらの物語を引き連れてそこにあるように見える。
これが「探偵ごっこ」の楽しいところ。空想と推察を眼前のものに結びつけて、捉えたシンボルの意味で理論立ててみる。
正解はなくてよく、感動を得られれば勝ち。そういう遊び。

肝心なのは、目の前のものに感動できたかどうか。
感動というのは、さめざめと泣くような切ないお話を見ることではなくて、感情を動かされたかどうか。文字通り。

ちなみにこの想像の窓を開いた時、僕はもし自分の空想がすべて的を得ていたら。と考えた。たった一瞬、隣を通り過ぎた親子をみて、ピカソはこれだけの情報を察していたことになる。
歴史に名を残す画家の、きっと恐ろしいほど研ぎ澄まされた探偵の目で。
そんなことを考えて、ちょっと震えた。


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