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祈りとともに旅をする。

7月と8月のうちの、ひと月半をかけての自転車旅の真っ最中だ。
それは自分がいつかやりたいと描いてきた旅でもある。

「いつか世界を子どもたちとともに旅したい」

そう僕が言ったのは、描いたのは何年前だったろうか。6年前くらいか。きっかけは京都の自然学校の代表と話していて、彼が「いつか子どもたちとリレー方式でアメリカ大陸を縦断したい。そのときは西川さんにもサポートいただきたい」と話してくださったときだったと思う。

あのころの自分を思うととっても恥ずかしい。たしかに行動はしていた。自分の思い描く生き方を続けていくために。けれどそれだけだった。自分の夢である旅を仕事として成り立たせたいから、行動しまくっていた僕は「仕事にすることが目標」であって、そこに向かうためのビジョンは無かった。とにかく多くの人に会って、つながって、そして旅をする!みたいなルーティンだったと思う。

そんな僕に会ってくださり、若造の至らなさを優しい言葉で返してくださった方々がたくさんいてくださったことにありがとうとごめんなさいと恥ずかしい思いがいくらでも湧いてくる。きっとこのあと今の自分を振り返ったときにまた僕は恥ずかしい思いをするのだろう。


今、中高生3人と大学生1人とともにタイを走っている。
数年前に描いていたことが現実となっていま目の前にある。というか24時間体制で逃げも隠れも諦めもできない状況でくっつき合っている。

それは夢が叶った達成感とはほど遠く、自分の余裕のなさと、自分がずっとひとり旅をしてきたことへの少しの後悔と、そして少しの孤独感のようなものが一番身近にある。理由ではなく、ただその感情がそこにある。

常に変化していく心と心がぶつかる場面で、変わらない正解なんて有り得ない。そのときどきに少しだけ聞こえてくる感じがする頭なのか心なのかが言っている小さな声に耳をかたむけ迷いもしながら、けれどそのときどきに決断し行動する。ただその繰り返しだ。

目の前の子どもたちに自分の経験と心のたどってきた道のりは通用しない。
どんなときにだって彼らのなかにそれがあって、僕は近くで、遠くで彼らを見つめながら、言葉をかけ、行動をしながら感じようとすることしかできない。

そしてそれはもしかしたらちょっとの弾みで割れてしまうことだってあるのかもしれない。その繊細さを意識しながらも、思いきって、自分の小さな声を信じて行動しなければいけないときに心のそこの方がヒンヤリする。

いつだって人のことを観察してしまう僕がいるのは、僕が自分勝手にまわりを巻き込んでいって、誰も口をきいてくれなくなったことがあるからだ。人の顔色を見て、波風立てないように生きるようになった僕が感じていたのは、誰とも分かり合えない孤独感だった。あのときの孤独を僕はまだ引きずっているのだろうか。

目の前にいる3人の子たちの心は、体は、僕からは離れたところで揺れ動く。
そのひとつひとつに向き合いながら、また僕は試される。

自分に足りないものがたくさん見えてくる旅だ。
それは自分では見つけられなかったものたちだ。

僕はどれだけ彼らの心のスペースを広げるお手伝いができるだろう。

ありのままの幸せ。いまここにある幸せ。貴重な時間と経験を積んでいる幸せ。
自分がやりたいことができている幸せ。ただ目の前のことに打ち込むことができる幸せ。

幸せって言葉であげるとキリがない。けれどそれを心のほんとに底から湧きでて自分の命となっていくものにできるかどうかは、僕は心のスペースにかかっていると思ってる。

言葉の壁があって、環境の違いがあって、他人とともに、普通では考えられないチャレンジをしている彼らはただでさえ心にたくさんのプレッシャーを抱えてる。その重さを分けあうことができるだろうか、そこに生まれる喜びをわかちあえるものにしていくことができるだろうか。

明日も無事にみんなで走り終えることができますように。

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