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工学部だった僕が誰かの人生に関わりたいとファッションへの道を目指したお話。

僕は【誰かの人生】にかかわることを仕事としてやりたいとずっと思っていました。もちろんそれは、世の中の仕事と呼ばれるものである限り、見える見えないに関わらずそのほとんどが誰かのためになっているんです。けれども僕はもう少し誰かのライフスタイルに関わるような仕事をしたい、と大学生のころ思っていました。

ちょうど大学生活にも慣れてきました。けれども自分が専攻している工学部・機械工学科というところでは社会はおろか、誰かのためになるようなものをその学びのなかから見出すことは難しく、また単純に機械をさわることよりも計算ばかりの授業に飽き飽きしていたところだったんです。

自分と同世代の古着屋や自分の店舗を持つことを目標に着実に進んでいる仲間たち、僕にビンテージという世界観を開いてくれた出会い、そして、これだ!とよくわからないけれど突っ走るだけの情熱を見出してしまった僕自身。これらが揃ったときに、当然のごとく大学生である僕の意識はほとんどこちらの世界にもっていかれてしまいました。

漠然と思っていたんです。誰かの人生に関わりたいって。自分にとっては服を見ること、選ぶこと、毎日考えて着ることはそのころの人生にとってはもうそれはご飯より大事なくらいでした。だからこそ、自分もその情熱を傾けながら、誰かのためになったら最高じゃないか。そう思って自分も毎週末に古着屋さん「西川洋服店」というのをはじめることにしたのです。

たしかそのころは僕がはじめてイギリスにひとり旅に出たあとぐらいのタイミングだったんじゃないかな。イギリスで買ったものとか、自分が着ていたものとか、そういうものを最初のころは売っていたように思います。

旅の話はそれだけでとんでもない量になってしまうので今回は語りません。最初のイギリスへの旅で友だちもできず、びびってしまって自分の思い描いていた自由な旅とは全然かけ離れた旅をしてきたと思っていた僕。帰りの飛行機のなかで感じたそのときの悔しさを持って、それからは長期休みごとにバックパッカーとしてヨーロッパをまわることにします。もちろん目的のひとつは古着を買い付けてくることです。

ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスなど巡りました。
日本にいるころには、とにかくビンテージや古着のことばかり考えて、まるで倉庫のように床から背より高いところまでびっしり本が並んでいたモスラという古本屋やブックオフに暇があっては通いました。そう、当時はネットが今ほど一般的じゃなかったんです。

分からないことがあったときに、調べるのはネットよりも実際にビンテージや古着を特集したムック本みたいなやつで、そこには生地、ラベル、縫製、ボタン、あらゆることを写真とともに紹介していて

「これはボタンがこの素材だから50年代のリーバイス501XXです」

とか

「この年代のリーバイスから縫製の糸は綿から化繊に変わり、色もオレンジになりました」

とか書いているのを見ては、それを買ってきて自分のスクラップブックのようなものを作っていました。それからリサイクルショップや徳島市内、実家のある姫路にある古着屋さんをめぐっては、自分が知り合いのお店や本でしか見られなかったビンテージを探して、自分の持てる予算のなかで買い足していきました。

そのころにもうひとつ楽しみにしていたこと、それは古着屋NUTSのオーナーヒロさん(このころ何度も足を運んですっかり仲良くなっていました)のところに自分が買ったビンテージを持って見せにいくことでした。

NUTSって今思ってもすげーユニークだったんです。店の中はそれはもうアメリカのどこかのお店のようだったんですが、どこにも値札がついていないんです。何ひとつとして。だからお客さんは気に入った服があったときに、これいくらですか?と聞かないとそもそもモノが買えませんでした。

そのときもヤラシイんですよ。ヒロさん。

「お、それね。いいやつじゃん。まずさ、そっち(あなたのこと)はいくらぐらいだったらいいと思ってるの?」

みたいに聞くんです。まず相手の出方から見るやらしいやっちゃ!と思いながら、その頃には僕もだいぶ相場の勉強をしているのでそれより少し安く言ってなんとか買おうとしたりしていました。けれど彼はすごく優しくてほんまにお金のない高校生の男子、女子が来て、すんごい安い金額を言ってきたとしても憤慨するようなことはなくて、むしろ「ほんとはもっと高いんだけどさ、今回はオマケしとくよ」なんて言いながら売ってあげてたりしました。

これってほんと外国の蚤の市にいるときのような感じで、お互いどう出るかみたいな駆け引きもなんとも楽しかったんです。と話がそれたので戻りましょう。

そうそう僕が新しく手に入れたビンテージを見せにいく。例えばリーバイスの70年代はじめごろのサードと呼ばれるデニムジャケットを。そしたらヒロさんそれを広げながら、これいくらだったの?うん、まあまあいいじゃん。なんて言うんです。それからおもむろに「ちょっと待ってなよ」と言って、お店の裏に消えて、それからトントンと階段をあがっていき、それから何かを持って帰ってくるんです。それが必ず僕の持っていったビンテージより古くて価値のあるものなの!

しかもヒロさん、「まあさぼくもこんなの持ってるよ?」って言ってそれを投げてよこしたりするんです。こんなの普通だよって言う風に。それがもう悔しいくらいの高くてカッコいいビンテージだったりして。あれはほんとに負けた気がしました。

実は、ぼくが大学4年生になったころヒロさんはガンで亡くなってしまいます。最後はお見舞いに行けませんでした。弱いヒロさんを見たくなくて。

それからお葬式で奥さんに出会い。それから仲良くなって、彼女がお店を続けていく決意をしたときに、ぼくが手伝うことになり。大学4年生のころは大学と古着屋さんと往復しながら、週末は古着屋をやって、それからアメリカ人のノーマンさんがやっていたBARでバーテンのバイトをしながら英語を勉強したりと今思えば楽しい大学生活でしたね。

当時は恥ずかしくて話すこともできなかったけれど、ぼくは恐ろしく奥手だったので恋愛も何回もしたのですが、それで相手も自分に好意を持ってくれていると思っていたのですが告白できずにそのまま自然に離れていくみたいなこともあった甘酸っぱい大学生。それはそれから何年も続くことになりますが、旅も生きかたもどちらかといえば思い切るほうだと思うのですが、恋愛や女性の気持ちに関してはさっぱりダメという感じでした。そしておそらく今もそうです。

そうしてぼくの大学生活は、学校の勉強や、学校の友人と言うよりも、古着の仲間たち、バイトつながり、そんな大学の外で花開いていました。ビンテージはどんどん詳しくなり、そこらの古着屋さんには負けないぐらいの知識を貯め込み、長期休みに買い付けに行っては週末に売る生活。

このころには将来の職業はセレクトショップのバイヤー、もしくは自分が当時とっても好きだったアメカジと呼ばれるスタイルのジーンズをはじめとしてとにかくこだわりの洋服を作っていたブランドで働くことになりました。後者は4年生のときに会社訪問もしました。展示会でいらっしゃった社長さんに直談判して。長野まで行きましたよ。そして2日間たっぷり会社のことを見せていただきました。

けれどいよいよ帰るまえに「それで将来どう考えているの?」と社長さんに言われたときに「ほんとにここで働きたいと思いました。けれども。。。。。いまは、思いっきり旅がしたいんです。そして戻ってきてご縁があったら働きたいです。」とお話ししました。今考えたらほんとに生意気な大学生ですね。あれだけしてもらって、挙げ句の果てに旅に出ますって!笑

まあよく言えば自分の気持ちに素直だったのでしょう。そうして僕は旅をはじめ、それが自転車での旅に変わり、めぐりめぐって今となるわけですね。人生とは分からないものです。

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