ダグラスの社会信用論学習メモーー常識をひっくり返すいくつかの前提

今、C・H・ダグラスの社会信用論を調べている。なかなか面白そうな理論なのだが、難解すぎて私のへっぽこ頭脳ではどこまで理解が及ぶかは正直こころもとない。しかし、まあとりあえず努力だけはしてみようと思う。

ということで、以下、メモ代わりに思いついたことをだらだらと記しておく。

元ソースはこちら→ http://rothschild.ehoh.net/material/41_08.html

まず、ダグラス理論を理解する上で重要なのは次のふたつの前提だ。

ひとつ目は、「生産量と貨幣量」は等しくなければならないということである。貨幣量という言葉が経済学的に正確なのかどうかはわからないので、ここでは単純に生産物の価格に等しい貨幣額と考えていただきたい。

なぜ等しくなければならないのか? 両者のバランスが崩れるとインフレ、あるいはデフレが発生するからだ。

主流派の経済学も認めている「三面等価の原則」を思い出してほしい。すなわち国内総生産であるGDPは、生産面からみても、所得面からみても、また支出面からみても同じ価になるというマクロ経済学の大原則である。等式で表せば、国民総生産=国民総所得=国民総支出である。これと同様、生産量と貨幣量も(常にではないにしろ)、原則として等しくなければならないのである。

もうひとつ重要な前提がある。価値の裏付けは生産力であることだ。一般に価値の裏付けとなるのは、金(ゴールド)とされている。しかしこれはどうみても間違った考え方だ。たとえば、砂漠に一人放り出されたケースを考えてみてほしい。その時、ゴールドがどれだけの価値を持つだろうか。食べ物になるわけではない。雨露をしのぐ材料になるわけでもない。そんなものは砂漠という極限状況においてはなんの役にも立たないだろう。

一方、生産力があればどうか。ここでいう生産力というのは自然に働きかける知識とそのためのなんらかの道具という意味だ。それさえあれば砂漠であっても食べ物が得られるだろうし、暑さや寒さに苦しむこともなくなるだろう。あるいはラクダや馬を捕まえたり、またそれをもとに馬車を作って、砂漠を抜け出すことも可能だろう。場合によってはグライダーのような空飛ぶ乗り物さえつくれるかもしれない。

このように価値の裏付けとなるものは、ゴールドではなく生産力であることは常識的に考えれば誰しもわかるはずだ。にもかかわらず、主流派の経済学者は価値の裏付けはゴールドであるといって譲らない。そこにはなにか別の理由でもあるのだろうか?

これをもう少し別の面から考えてみよう。

単純化するため、国家を家族にたとえてみよう。山奥で自給自足をしている家族を一つの国家とみなすのだ。

この家族にとって大事なことはなにか。それは家族全員が健康で働けることだろう。働くことができれば、畑で食料が作れるし、川で魚を採ることもできる。樹皮や綿花を集めて布を織り、服を作ることだってできるだろう。つまりこの家族にとっての価値は家族の生産力ということになる。

家族が働くことができれば、畑を広げることも、家屋を増築することも簡単にできる。

さてここで食料を増産するため畑を広げたいと家族が考えたとしよう。あるいは雨漏りがするから屋根を修繕しようということでもよい。これは家族にしてみれば一種の公共事業である。

しかしこの家族にとって公共事業を行うのにお金は必要ない。もちろんゴールドなども不要だ。

たんに男たちがその気になればいいだけの話だ。その気にさえなれば畑などいくらでも広げられるし、屋根も直せるだろう。

ここまではよいだろうか?

しかし、もしここでこの家族が「俺たちにとって一番大事なのはゴールドだ」と言い出したとしたらどうだろうか?

仮に家屋が雨漏りし始めたから屋根を修繕しようとなった場合、大工仕事をする男たちが「ゴールドがもらえないのならやれないね」などと言い出したとしたら‥。

女たちが「終わったらごちそうをたらふく食べさせてあげるからお願い」といっても男たちが「ゴールドがなきゃいやだね」といって聞かなかったら‥。

さて、これを現代の国家にあてはめてみよう。公共事業として高速道路を作ることを想定する。

国内にある道路会社やその他関連会社の能力を集めれば、高速道路を造ることなどたやすいことだ。そのための材料も技術も労働力もすでに十分にある。

であれば、それらの会社に造ってもらえばいいだろう、と思うところだが、現代の国家ではそうもいかない。「ゴールド」がないと誰も動かないのがこの経済の仕組みだからだ。

先立つものであるゴールドがない限り、いくら国民全員がそれを望んでいようと、またその十分な能力があったとしても高速道路を作ることは永遠にできないのだ。

つまり、国全体としてその能力があるにもかかわらず、国民全員が貧しいままでいなければならないのだ。貧困に甘んじなければならないのだ。他のすべての条件はそろっているのにただひとつ、「ゴールド」がないために‥。

これはさきほどの家族の例と同じだ。

可哀想な家族は雨漏りのするあばら屋で不便な暮らしを強いられるだろう。その必要はないし、そのような状況を改善する能力があるにもかかわらず、である。同様にその国の国民も高速道路のない不便な生活を強いられるだろう。その必要はないし、それを作って不便さを解消する能力があるにもかかわらず、である。

たしかに家族と国家ではその成員間の信頼度が異なるから単純に同じものとみなすわけにはいかないかもしれない。しかし、生産可能かどうかという点だけでみれば屋根の修繕作業、あるいは高速道路建設といった追加的な作業を行う能力があるのは両者とも同じである。つまり、その気にさえなれば両者ともにその成員を満足させるだけの十分な能力があるのだ。

ただゴールドという、いざという時、なんの役にも立たないものがないがために、それができないという摩訶不思議な状況に陥ってしまうのが現在の経済システムなのである。

他のすべての条件がそろっているのに、唯一それがないがため、よりよい未来をつくることも明日への希望も持てないゴールドとは、お金とはいったいなんなのであろうか?

こうしてみると、今の経済システムがいかにおかしなものであるかが見えてくるのではないだろうか?

次回、また別の視点から現在の経済システムの矛盾に斬り込んでいこうと思う。

追記

第三の前提

国民は国が有史以来積み重ねてきた知識やノウハウ、発明、発見といった真の資本の共同所有者である。

資本とは何か? 本当の資本はお金ではない。それはもともと誰のものでもない資源であり、古代から多くの人が関わってきた発明や発見、ようするに固有の文化をふくむ言語や文字、知識などの総体である。それらは人類の共有財産である。そうした資本から生み出された利潤はだからこそ万人に配当されるべきである。現在は、一部の資本家がその権利を主張しているが、それらの「資本」を独占できる個人は本来どこにもいないのだ。

われわれ全員が生まれながらにして巨大な生産力をもつ国家という大企業の株主なのである。つまりわれわれ全員が生まれながらにしてこの国家の配当を受ける権利をもつ資本家なのだ。

税金も今のような税金は不要になる。

民間企業が生み出すのは、民間サービス、役所が生み出すのは公共サービス。どちらも同じ生産である。ダグラス理論によれば、すべての追加的な生産は追加的な信用(お金)によって賄われる。公共サービスも同じだ。民間サービスがそうであるように公共サービスもまたその信用は「社会信用局」からの追加的な融資によって賄われる。国民から徴収する税金によってではない。

しかし、公共サービスを利用する際は当然、利用料を払わなければならない。これはいまの税金と同じではないのか?

大きな違いがある。単純化していえば、こういうことだ。まず追加的な公共サービスに対してはその総額に等しい追加的な国民配当が国民に対してなされる。そして国民は公共サービスを利用するにあたって、その利用料を支払うのだ。すなわち国民は追加的に配当されたのと同じ金額をそっくりそのまま「公共サービスの利用料(=税金)として役所に支払うという形になる。当然ながらこの場合、新たに受け取ったものをそのまま渡すだけなのだから、差し引きゼロである。つまり国民の懐は少しも痛まないということである。

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