恐怖心の克服方法…って何?


東京って場所でずっと心が折れてたから

離れて自然の多い所に逃げてきた。

今はそう思う。

でもその怖さの中にいる時は自分が何をしてるかよく分かってない。

怖さや痛みに翻弄されて、

それらが自分よりとても大きなものに見えた。

外側からやってくるもの、私にはどうしようもないもの。そう思ってきた。

でも本当はそれは自分が作っているよ。

ということに気付いた話しです。



都会を離れて、これなら私にもできると選んだ販売の仕事も

蓋を開ければ、なぜだかそこは

都内よりも人が多いんじゃないかと思う店内の人の多さと

忙しさの日々でした。

自分で選んでおきながら、どこかでたかがと見下してる職種が

これなら私にも勤められそうだと思う仕事でした。

仕方なくするお金のための仕事。


だからといって、ちゃんとやってないわけでもなく…。

ある時、自分が起こした大きなミスがありました。

ミスの理由として、私は当然理解されると思って用意していた答えを

上司に当時は訴えるように伝えました。

当然あなたもこの理由なら仕方ないと思ってくれるだろうと期待しながら。


でも、


「恐怖心ゆえのミス」という私の答えの裏にある期待は無残に砕かれ

その時の、私のショックといったらなかったです。

「怖いことは理由にならない」と

はっきり言われたのは初めてだったから。

しかも、こんな職場で...。こんな仕事で…。と

多分、無意識に思ってた。


この理由のどこに落ち度があるか分からず

それは、私の人生はいつも恐怖が理由だったからでしたが

恐れることが何の理由にもならないという上司に最初、

理解されない悲しみと隔たりが生まれて

いつもなら、そこで環境を変えていた私なのに、今回それをはしませんでした。

東京のように人も仕事もあったら

私ひとりの変化も埋もれて見えなかったのですが

狭い町ですぐに仕事を変えてしまうことが、なんだか目立って見えて恥ずかしいように感じたから。

実際すでに、仕事を変えることはこの街へ来てからも東京の頃と同じだったから

そう感じました。


あの人はここで働いていたんだとか

買い物先ではばったり知人に会い

私でなくても、誰かと誰かが会いましたねと立ち話を始めて

一人ひとりがちゃんと見える場所のように見えたからです。

あの人もこの店使うのかというようなことがバレてしまう環境の小ささが

私がするお決まりの選択パターンを変えました。


でもそれが良かった。

私はあるとき決めました。

それは大分先でしたが、辞める時期を決めて

それまでに起こることはちゃんと引き受けようと。

辞める理由は

今までは、怖いから退くなどでしたが

今回は自分がそこにいても魅力を感じないからでした。

自分ではどうしようもない理由ではなく

自分はどうしたいかという理由でした。

起こることを引き受けるというのは、怖いことや傷付くことを受け入れるという選択をあえてする事だったので

案の定、色々あって大変でしたが

それは今までとは違う大きな変化の始まりでした。

そして自分の恐怖心すら、自分が望んでやっていたのが自分にバレる機会でした。


ある時期に、私がきっかけではないけれど

私がクレームを対応するという事が続きました。

しかもまわりにたくさんの人が見てる状況でそれが続き

さすがにもう嫌になった時のこと。

家でルームメイトにその話を聞いてもらいたかったけれど、それが叶わず

諦めて自室に戻った時に、なんだか悲しくなりました。

なぜこんなに怖い思いしてるのに

誰も分かってもらえないという思いが出てきました。

とても悲しくて、泣きました。

泣いてやりました。

そしたら、やっと気付いたんです。

私は誰かに気付かせたくて、怖がっていた事に。

「こんなにも怖い思いしてるのに」


私は今までずっと誰かに癒してもらいたくて

自分以外の誰かに気付いてもらいたくて

アピールのように自ら怖がっていたかもしれないと自分の恐怖との関係が変わり始めました。

それは同時にこの世界は自分が作っている、というのが本当だと思った瞬間でした。

自分が欲しいもののために、しっかりその自分でいたのでした。

誰かから癒してもらいたかった。それは自分が自分を労わり慰めることを一度もしてこなかったということ。

それでも私はまだ怖がっていました。

そして恐怖を理由に何か上手くいかないと訴えていました。

でもそれは、恐怖を抱える自分を許せなかったからでした。

恐怖してはいけないと許せなかったんです。

それで、最近諦めました。

怖がる自分を認めました。本当はもっとカッコよくいたかった。潔くいたかった。

でも、もう降参でした。


怖いから環境を変え、

怖いから選ばず、

怖いからそうなってしまうと諦め

怖いが理由なら私には成す術がない、

そんな感じでした。

まるで、怖いせいで(お前がいるせいで)

そう言って責めるような悪いことがいつも自分の中にあって、責める自分と責められる自分で葛藤がありました。


そしてもう一つ、

怖いゆえにあえてそれを選ぶと言うことも

実は無意識にしていました。

怖いものに果敢に挑戦したら成長できると

その痛みに見合う別のいいものを、どこか期待しているように

こんな辛い思いをすれば、きっと何か得られるだろうと。

そして、この理由を握りしめておけば

当然他人にもしょうがないで諦めてもらえるだろうと思ってきました。

恐れは切り札。

弱さを武器に使ってる強かさには気付かなかったです。

つまり被害者でした、ずっと。

外の世界でしてることは自分の内の世界でしてることの結果だったのです。

私が私を責めるという

自分の中の雛形を頼りに、

外側の世界にも私を責める人を、私が怯える人を私が置いたのです。

怖がってしまうことは反応だから仕方ないと思っていたし、漠然と相手を怖がってしまうことに申し訳なさがあったけれど

その時は気付かないままただ怯えて、今思えば

怖いと私が怯えた人達は、その役をやってくれていたのだと

私が怯えたかったから、それを手伝ってくれていたのだと

今はそう思います。


私が怖さを利用する側で、私が怖さを逃さず捕まえていたなんて。

私が好んで自らそれをしていた。



でもそれに気づいたのはただじゃなかったです。

出会いとご縁と巡り合わせに感謝出来たから。

見えるものと見えないものとに。


#メンタル

#恐怖心

#傷付きやすい


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