生きていく上で、決してしないほうがいいこと

人が生きていく上で、決してしないほうがいいことがある。

それは”拒絶”。

拒絶は日常茶飯事行われており、当たり前のように人がする行為だが、
実はかなり危険である。

人は嫌いな奴やモノ、非人道的な行為を行う者に非常な不快感を感じる。たいてい、それを目の当たりにすると、その者に対し、拒絶をしてしまう。
だが、この拒絶は結局のところ”自己拒絶”につながっていく。他人や社会、不快な行為、もしくは観念に至るまで、何を拒絶しても最後、それは自分を拒絶するに至る。

あなたはこういう類の人を見たことはないだろうか?

何かを強く嫌悪している人。
そしてその人がよく、そのまさに嫌悪するタイプの人に出会ってしまい、ブツブツと文句を言い続ける様を。

例えば自慢話が嫌いな人。
そういう人がちょくちょく自慢屋に出くわしては、さんざん自慢話をされ、不快になってる様子など。そして、そのあとでやはり、ブツブツと不満を垂れ流し続ける。

こういう人を見て愚かしいと感じられるなら、あなたはかなり正常だと思う。だがもし、一緒になって「何アイツ、嫌な奴だね」などと言う輩がそばにいるなら、その者とは縁を切ったほうがいい。
むしろ「あんたもそういう所がある」と言ってくれる人を友にすべきである。あなたが繊細な人なら、あなたを傷つけないように言ってくれるだろう。そこに愛があるかどうかは、わかるはず。

だがなぜ、嫌いな者や不快なものに出くわすのか?
彼、彼女はそれを確かに拒絶したはずなのに?
答えは簡単。
拒絶したものは結局の所、その人の頭、心の中に留まったままだからである。
また、拒絶するからには、ネガティブな要素を相当はらんでいる、というのも要因だ。

人間がネガティブなもののほうに過剰反応するのは、周知のとおり。
メディアが行うネガティブキャンペーンもそうだし、SNSで何十万という登録者がいる人気者なのに、たった数人の心無いコメントに傷ついたりするのも、それを証明している。

余談だが、そういう人たちは一度、2ちゃんねるのような場所で過ごしたらいいと思う。関わる価値もない、てんぷら油の底に沈んだ黒焦げのカスみたいな連中だという事がわかるだろう。てんぷらの衣としても機能せず、ただただ油を汚し続けるためだけに浮遊し続ける、この世の塵のような存在だ、というのがわかるはず。
ねらー(古い)全員がそうだとは言わない。ごく一部の連中である。

ちなみに現在は5ちゃんだそうです。
知らなかったのは私だけみたいですね。

要は、不快な場所に訪れてみて、それを体験してみるのもいい勉強になる、ということ。動画投稿者たちの中には、「心無いコメント者に対して物申す」みたいな動画をつくったりしてる人がいるけど、そんなことしたら、それこそ彼らの思うツボである。その時間とエネルギーがあるなら、ゴミ溜めに行って直接彼らを見たほうが早い。昔あった見世物小屋のWeb版と考えればいい。

彼らに対しては、スルーするのが一番だ。
これは2ちゃんねるでも、古くから口を酸っぱくするほど言われていた。
アホは相手にするな、と。

話がそれたが、何を言いたいかと言うと
とにかく、ネガティブ要素が強いほど、拒絶という行為も強まる、ということである。そして拒絶が強まるほど、自分の中でその力が強まっていく。

エネルギーというのは人が意識を向けた先に集まる。
何かにこだわるほど、意識はそこへ向くのだから、当然エネルギーもそこへ貯まり続ける。

そして、人がこだわればこだわるほど、それは強まり、吸引力を持ち始める。それは磁石のように働き、人生の途上においてまさに、その拒絶した当のものとエンカウントする、という羽目に陥る。

スッピーたちがよく口にする”引き寄せ”がネガティブな方へ向かった例だ。
今、スピつながりで、とてもいいことをバシャールが言っていたのを思い出した。それは、
「どんなものに遭遇しても、決してそれらを拒絶しないでください」というもの。彼はコトある事にこの発言をしていたと思う。

数十年前の記憶なので正確な文言は思い出せないが、この言葉はバシャール史上、もっとも美しい言葉として私の心のなかに残っている(別にバシャールが好きなわけではない。どちらかというと嫌いだ。彼についてはいずれ、書かねばならない)

昨今よく耳にするストーカー被害。
被害者が相手を拒絶することで、それが余計に吸引力となり、ストーカーの粘着気質に火を付ける。たいてい被害者は最後まで抵抗するが、まさにその行為が仇となり、最悪の結果に至る。

被害者の心のなかにある、加害者への拒絶。
その拒絶が強まるほど、そこにエネルギーが流れ、肥大していく。
一方、加害者は拒絶されたことで、心のなかにある被害者への思いが募り、やはり、エネルギーが流れこむ。エネルギーが流れてしまうのは”意識してしまう”から。

そうやって、双方が互いに心の内にエネルギーを注ぎ込むことで、磁力を強めあっていく。このとき、お互いが相手を強烈に思い合っている、ということに気づいただろうか?
別の記事でも書いたが、好き嫌いが問題なのではない。どれだけこだわっているか?が問題なのだ。双方の相手に対する思い、つまりこだわりが強いほど、相手を思っていることになる。
だから、加害者はそれに引っ張られ、被害者は引きつけてしまう。

私も若い頃は街で好みの異性と出会ったりすると声をかけたりしたが、
中には頭から拒絶してくる相手もいた。そんなときは、
「(いきなり取って喰おうというわけじゃないんだから、お茶くらいよくね?)」
と、悲しさと怒りの入り混じった変な感情に毒されたものだ。
(ちなみに当時は「よくね?」みたいな言い回しはなかった)

私は本気で恋人が欲しいときしか声をかけたりしないので、付き合えるなら真面目に交際する気だった。私にとって、職場で出会うのも街で出会うのもどちらも変わらなかった。
どちらも同じ出会いである。街中などで出会った場合、そこで声をかけないと十中八九、二度と会えない。

もちろん、そんな事情は相手の女の子にはわからない。袖振り合うも多生の縁、などという言葉は彼女たちの辞書にはない。ナンパする奴はもれなく、下心満載のチャラ男なのである。

そのくせ「女性が男性に生まれたら、してみたいことランキング」には必ずと言っていいほど”ナンパ”が上位に入ってくる。
どないやねん・・・

ともかく、丁寧に断られた場合、私はなぜかすぐに諦めがつき、嫌な気分もしなかった。もちろんタイプの女の子なので残念ではあった。だがそれ以上に、優しくやんわりと断ってくれた相手の気遣いに心を打たれ、結果、しつこくつきまとって相手を不快にさせまい、と思うに至ったのかもしれない。

ストーカー被害に関してはいろいろな要素が絡んでおり、時には過去生からの因縁などもあったりと複雑多岐に渡るので、一概に言うには難しい面もあるが、被害者側の態度に原因はなかったのか、考察する必要はあるかもしれない。

-拒絶は自分の中に闇をつくる-

「嫌いなやつは拒否して当たり前」と思う人もいると思うが、
そんなあなたは、自分をも拒否する羽目になる。
なぜなら、あなたが拒否、拒絶したものはすべてあなたの頭と心に残っているから。
あなたは、自分の一部を拒絶しているのも同じである。

拒絶は自己を蝕む

あなたがこだわっている以上、それはあなたの中にある。
「こだわっているか、いないか」で判断すると容易だ。
あなたが肯定したものも、拒絶したものもあなたの頭にはっきりと残っているはず。ただ、嫌いなものは見ないようにしているだけ。

「真実から目を背ける技術は、もはや現代人は達人の域に達している」
とグルジェフが皮肉を言っていたが、私もこれには同感するしかない。

そして肝心なのは、自分の中にある以上、それはあなたの一部である、ということ。さらに拒絶を強め、フタをしようとすればするほど、そこへエネルギーは集まり、力を増し、強まっていく。
それはやがて意識を圧倒していく。
抑圧するほどにそれは力を付けていく。
そしてついに爆発する。

それを描いたのがスティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」であり、
現代では「超人ハルク」だろうか。どちらも”自身の闇の存在”として描かれており、その破壊的な力と怒りはまさに抑圧された者の恨みと復讐心を表している。

リアルな話に言い換えると、
「気がつけば、自分がその不快な人と同じ振る舞いをしていた」という事態が起きる。自分が拒絶した当の者に、自らも成り下がってしまう
ジキルはハイドに変身するし、バナー博士はハルクに変身するのだ。
これは「自分の中にあるからこそ、そうなった」という事実を証明している。

また、拒絶という行為そのものが心のなかに葛藤を生む。そして葛藤は怒りや憎悪の種となる。反面教師という言葉はすこぶるいい言葉だと思うが、思考がこれをやると逆に取り憑かれてしまう。思考は自分の持つ性質を善と悪にわけるから。

仮に不断の努力で闇が表に現れるのを防げたとしても、人間には”投影”という機能が備わっている。それは、身近な人間やその他の人間に投影される、ということである。そしてやはり、嫌な目に遭うだろう。拒絶の度合いに応じて、どのくらい不愉快な目に遭うかの数値も上がっていく。

ユングは「無意識なるものはすべて外へ投影される」と述べ、古代人はその投影された不快な人間たちを”影”と呼んだ。
”影”は常に人の背後や足元に、つきまとい続けるのである。

影 シャドウ

まとめ

・拒絶は自分を拒絶することと同じである。
・拒絶は心に葛藤を生み、自分自身を苛(さいな)む。
・仮に拒絶したものをうまく抑圧し続けても、それは周囲の人間に投影され、やっぱり嫌な目にあう。

ゆえに、生きていく上で”拒絶”はおすすめできない行為のナンバーワンである。注意したいのは、”受け入れる”のとは違うということ。
「拒絶せず、自分の中にそれが入ることを許し、かつ、それを掴まないこと。そしてそれが、ただ流れて過ぎ去っていくのを待つことである」

それは難しくない。

”受け入れる”と何が違うのか?
”受け入れる”という行為は「取り込んで、かつ、掴む」ことである。

取り込んだあと「掴まずに流す」ことが要である。


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