「他人への考慮」不要論

他人を考慮することは、一般的に、社会で人と関わって生きていく以上、当然するべき必要な行為であるかのように思われている。

今回は、この行為が不必要で無駄なエネルギーの浪費でしかないことを語る。

まず、人の想像力はどこまで行っても個人の主観にとどまる、と言う話から。これは、文字通り「どこまで行っても」である。

一度でも、主観や客観について思いを巡らしてみた事がある人はわかると思う。「世界」という言葉をある人が使うとき、それはどこまでいっても「その人の世界である」という事実。
そこに客観性はない。

なぜなら、見ているのは彼の目であり、聞こえている音は彼の耳であり、匂いは彼の嗅覚、味は彼の味覚である

”彼”の五感=世界


そして、「思い」もしかり。
彼がどんなに思いの羽を広げて想像を膨らましても、それは徹頭徹尾、彼の
想像力の範囲内である。

彼の頭の中=”彼の”世界

彼がある人を考慮したとする。
その”ある人”から得られる、可能な限りの情報を汲み取り、想像をめぐらしてみてもそれは「彼の想像」の範囲内である。
どこまでいっても”彼の頭の中の境界”を出ない。

彼が”世界”というとき、それは「彼の世界」である。
彼が”彼女は”というとき、それは「彼の中の彼女」である。

このことは、寝る前の静かな時間でいいから、少しだけ思い巡らしてみてほしい。容易に理解が得られると思う。

ゆえに、人が誰かを考慮しても、それは相手の内面のことではなく、
”自分の想像の中の相手”でしかない。
つまり、それは自分である。
すべてがあなたの頭の中、内面で行われているのだから、あなたが考慮したのは相手ではなく、「あなた」である。

それならはじめから、相手を考慮する必要はない。
自分を考慮していればいいだけ、ではないだろうか?

どんなに頑張って考慮しても、相手の内面には遠く及ばない。
それどころか下手をすると、勝手なレッテル貼りをしてしまい、相手から煙たがられることにもなりかねない。
はたまた、相手の真意を測りかねて、こうでもないああでもない、と言って
夜も眠れなくなる可能性も。

そんなリスクを犯してまで、考慮などする必要はあるだろうか?

もう一つの問題は、自分の軸がブレやすくなる、という状態に陥りやすくなること。常に相手を考慮していると、他人が自分をどう見ているのか、も気になり始める。
他人の自分への意見、感想、それは、先に述べたように、ただの主観であり、思い違いである場合がほとんどだ。

他人の目線に立ってしまうと、それに合わせて自分を振る舞うようになりやすい。
常に言動の基準が”周囲の環境”だったり、”目の前の誰か”だったりと、自分の基準で行動ができなくなる。

こうなるとまずい。
あなたの意識が自分自身に向いてないと、間違った行動を取る可能性が飛躍的に増える。

ここで少し違和感を覚えた人もいると思う。
「周囲の環境や状況を考慮に入れるのは、ごく自然なことではないか?」
そう思ったかもしれない。
そして「そんなにも”自分の基準”というものは正しいものなのか?」と。

最初に述べたように、周囲の環境や状況、他人に至るまで、それは最終的にあなたの頭の中で処理されている、ということを思い出してほしい。
そして、それらを考慮することにエネルギーが向いてしまうと、あなたの本質的な部分との接続が断たれ、確かな情報が届きにくくなってしまう。

”あなたの本質は常に、あなたがどう振る舞うべきかを完全に把握している”

あなたは、意図しなくても、あなたの目や耳は周囲の環境情報を入手できている。だからそれ以上、外側に意識を向ける必要はない。
ただ、意識は自分へ、自分の本質へと向けられていればいいだけだ。

「自分を世界に合わせるな。世界が自分に近づいて来るようにせよ」
この言葉を800年以上も前に、親鸞和尚が述べている。

これを実行できている人は、特にアーティストや芸能人などに見受けられる。はじめは、アクが強く感じた言動も、そのうち、それが逆に人気の要因となっていく。あなたも何人か、心当たりがあることだろう。

結局、他人を考慮することは、自分の軸を失いやすい状況に人を至らしめる。他人を考慮しがちな人は、思いやりや優しさを、より多く持っているのかもしれない。だが、それは決して、他人への優しさにはつながらない。
それにより、自己肯定感が下がるならやらないほうが良い。

なぜなら最も大切なのは、あなたがあなた自身であること、だから。

あなたは、他人や環境や会社、家庭を第一にと考えて生きてきたが、それで
うまくいっただろうか?
仮にうまくいったとしよう。
だが、肝心のあなたは幸福になっただろうか?
「周囲が幸福なら、自分のことはどうでもいいです」
と、あなたは言うかもしれない。
それは本当だろうか?

・・・

何事も家庭や子供や友達、会社を優先にしたおかげで、周囲の評価は上がっただろうが、本当は身も心もかなり、すり減っているのではないだろうか?
あなたがもし自己自身なら、あなた自信も幸福になっているはずだ。

だが、そうでないとしたら、それは、あなたが”あなた自身でない”ことから問題が起きる。

自己自身である時、人は身勝手な言動は取らなくなる。
正確には”取れなくなる”
あなたが本質的である時は”世界”という全体を無視できなくなる。
このことは、何の努力もなしに行われる。

ユングは
「人が自己自身である時、自己中心的にはならない」
と述べる。

機械で例えるとわかりやすい。
例えば、コンピュータはいろいろな部品からできている。
そのうちのある部品が、自分が定められていない場所に居座ろうとしたらどうだろう?
メモリが自分の仕事をほったらかしにし、「CPUにオレはなる!」とか言い出したとしたら?

役割を知らないメモリ

コンピュータがまともに稼働しないのは明白だ。

ケースのネジでさえそうだ。
あるネジが、場所が気に入らないのか、暑いのか寒いのか、理由は不明だが、自分に合わないネジ穴に無理やり収まろうする。
その結果、そこだけ強度が落ち、時間の経過とともにその部分が緩んでいく。

1部分が緩むと、今度は周辺のネジに負荷が分散され、そこに負担がかかる。すると当然、そのネジ止め部分が劣化していく。そうなると、また同じように、その周囲のネジたちに負荷が増えていき、やがて、強度の低下は全体へと広がっていく。

たった一本、ネジが自分のネジ穴に入らなかっただけでーーー”自分にあうネジ穴に収まろうとしなかっただけで、”影響は全体へと及ぼされる。

社会という機械を稼働するためには、私たち、”人”という部品が
各自、自分を知り、自分がどこで何をすべきか、を知らないと社会全体の動きがおかしくなってしまう。

彼、彼女は自己自身だからこそ、自分のやるべきことを知っているし、その場所で能力を遺憾なく発揮できているし、それなりに評価され、それなりの報酬ももらえる、ということである。

これはあくまで、”自己自身であるとき”に限る。
エゴ、つまり自我がこれをやると、本当にただの自分勝手な人になってしまう。ゆえに最初に自己の本質へ移行することが必須になる。

この問題もやはり、このブログで提供するワークが助けになってくれるかもしれない。
興味があれば記事「ワーク」を参照してほしい。

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