禁忌の気づき

心の仕組みをずっと考えていて、いまさっき、ものすごい恥ずかしい発見をした。

私は、ずっと常に消えない被害者意識があった。
物心ついた時から、なんで雨なんだ?なんで学校へ行くんだ?なんで女ってカテゴライズされるんだ?なんで金がいるんだ?なんで生まれちまったんだ?なんで毎日腹が減るんだ?なんでこんなにこの服チクチクするんだ?なんで怒りはあるんだ?
全部に対してそんな感じで、状況に責められている感じがした。全てがtoo muchに思えるし、デカすぎ、うるさ過ぎ、強すぎ。それは、愛、みたいな、ポジティブなものでさえも、そうだった。デカすぎ、全部怖い。


で、そのことを冷静に振り返ってみると、
ようは、生まれ持ったセンサーの過敏さが裏返しとなった、「キャパの狭さ」が成す現象だと思い至った。許容値がめちゃくちゃ小さい。

すぐ、いっぱいいっぱいになる。
映画を2時間じっとみるのも昔からかなりキツい。これは他人に言うのがいつも恥ずかしい。

あとはたとえば
病気の人がいたら、多分普通は、かわいそうだ、と思ったり、言ったり、その人を労ったりする。
でも私は、病気の人を見るの自体キツい。病気という、よくわからない現象か目の前に現れたことに圧倒されて、それに苦しんでいる人の心まで気を回す前に、恐怖に焦って、ヘバってしまう。

そうすると、人から言われる言葉は、冷たい。とか、自己中心的。とか、そんな言葉だ。
あとは、優しい言葉をくれないので傷ついた、とか言われたりもする。

それで、余計に被害者意識を強めていた気がする。

でも、彼らの感じたこともまた、真実だ。
こんなにキャパのないやつ、みたことないのだとしたら、意味わからなくて、傷つくのも無理はない。
悪気がなくても私は、人を傷つけていたのだとしたら?

そしたら、冷たいやつだと言われまくってきたことにも納得できる。

しかも、病気の人を見たら、かわいそうだと思うのが普通だ、ということは一般論として理解しているからこそ、そう感じられない自分が、自分でもめちゃくちゃひどい奴に感じていた。
それで実際、かなり、自分のことは嫌いだった。冷たいね、と言われた時、だよね。と、他人の味方をしていた。

正直、みるのもキツいです、とか、いえなかった。でもそれは私の中の事実ではあり、その感情はつねに私自身によって「出てくるな」と虐待されていた。

そんで、自分の味方が居なくなっていた状況で、感情が放置されていた。

「一般論と違うっぽい感想」は言わないように一旦気をつけていたので、必然的に嘘ばかりつく状況になり、会話自体が苦痛なものになっていき、かなりこじれた感じに出来上がった。

映像を見てても、意味わかんないところで突然号泣したりするのはたぶんそのへんに端を発している。


本当に恥ずかしいな……

繊細な人間は、優しいと思うじゃん。
いやいや、繊細な人間って、(他人目線だと、)結構ひどい奴だ。

他人に分けられる愛が、限られている。

この、禁忌みたいな真実、どのくらいの人が感じているんだろう。
私は、こんなこと、あんまり、気づきたくなかったなぁ。

でも、人に優しくなりたいと、今ものすごく感じていて
キャパは無いが、そのことぐらいは自覚していたいと思った。

それと同時に、そんな自分のことも愛す、


むずすぎる! (がんばろうね)