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私を拾ってくれた人たち

生きる能力、これすなわち、感謝する能力だな〜とつくづく思う最近。
空気や水や皮膚や爪にも感謝しているよ。
というわけで、気まぐれにいま私が今お世話になってる人を2人紹介します。
どっちも、拾う神。

ごとうさん

マンガ家の創作を支援する会社・東京ネームタンクを作った創業者であり、私の務めるクリエイターエージェンシー・コルクに合流してきた役員でもある。
私が入社してから、ずっと直属の上司であり続けているごとうさんに、私は拾われた、という感覚を持っている。

まず最初は、入社面談。ひたすら楽しくマンガの話で盛り上がった記憶しかないが、その中で私がしどろもどろになりながら言った、「編集の知識こそ、分析され研究されるべきだ」という趣旨の発言に共感し、面白がってくれたことをずっと覚えている。漫画家を目指す人は多く、漫画についてのメソッドはそれこそネームタンクやコルクをはじめとして研究されつつある一方、編集という技能には再現性のある有効な研究をあまり見聞きしたことがなかった。まだ明らかになっていない知識や法則性を探求したい、という当時から強烈に私の中にある感覚を、面白がり、興味を示してくれたことが嬉しかった。ああ、「拾ってもらえた」と思った。

次は、転属面談。コルクに入ってから意外だったことの1つとして、webtoonスタジオとしての縦スクマンガ事業に力を注いでいたことがあるのだが、私はこれについてずっと何だか腑に落ちないような、他人事のような気持ちが拭えずにいた。webtoonが流行っていることもわかったし、そこに力をかけるビジネス的な合理性があることもわかったのだが、webtoonが自分の当面の仕事になる、という点において、いまいち全体重を乗せきれず、面白がりきれずにいた。
そんな中で入社1年が経ち、この未来で合っていたのかと、暇さえあれば人生について考え求人サイトを眺めるような時期に、ごとうさんから任命されたのが東京ネームタンクを再び盛り上げるという仕事だった。早い話が部署移動である。急かつ全然毛色の違う仕事なので正直びっくりしたが、ここでもまた、拾われた、という感覚を抱いた。東京ネームタンクは他ならぬごとうさんがこの世に生み出し育ててきたサービスだ。ごとうさんがコルクに合流してからというもの、結果的にコミットできる時間が減り、売り上げも全盛期の何分の一、という状態になっていたところを、環境が整ってきた今、再び注力したいとのことだった。そんな重要で正直荷の重い仕事を、入社1年でくすぶっている自分に任せて大丈夫か、という当惑と心配の気持ちがあったが、ここでもごとうさんは、私の何気なく言った言葉、「これは会社の中での単なるプロジェクトの1つではなく、1会社の事業・創業というべき分量の仕事です。誰かが片手間で完走できるような仕事じゃないはず」という率直な感想に興味を示し、ある種の信頼をしてくれたのだと思った。
またしても私は、意外なところで拾われたのだ、と思った。

さらんさん

私が業務委託として毎週末勤務している陶芸教室の代表である。こちらは正式には会社ではなく、個人事業主としての業務委託という形であるため、「拾う神と拾われた者」という印象が、より強い。
本人も陶芸に心奪われた作家であり、自分の制作アトリエの家賃を回収したいという動機で週に数日だけ始めた陶芸教室があれよあれよと人気になり、もはやフルタイムの教室オーナーと化した才覚者だ。

webtoon事業に乗りきれず、求人サイトを眺めていたようなまさにその時期、たまたま陶芸講師の求人が目に入り、「これだ」と思った。過去に陶芸をしていたこともないのに見つけた当日に連絡して、数日後には会いに行き、そのまた数日後には勤務開始していた。まさに人生のなかでたまにある、物事が急速に前進する現象、運命の歯車がガラガラと回り出す瞬間という感じがあった。

ここでも私は、拾われた。
求人募集には、はっきりと「陶芸経験者、もしくは講師経験者」と記載してあり、つい今さっき「陶芸」という文字を見てピンと来たというだけの人間には程遠い条件であったことは間違いないが、「大学時代に授業でちょっとやったことがある」「旅行先で一日体験をやったことがある」という苦し紛れの(日本人の過半数が該当しそうな)私のプレゼンにも耳を傾け、面白がり、面談の時間を作ってくれた。まさに拾う神である。とはいえもちろん、私も生半可な気まぐれではなく、(根拠も説得力もまるでないが)それなりに本気の、人生に数回レベルの強い直感で「これだ」と確信していたので、「(平日5日の会社員だが)休日どっちも毎週差し出す覚悟がある」ということを伝え、「陶芸は全然やったことがない」とさらけ出しつつ、「ホームページの写真の撮り方や文章に至るまで他にないセンスを感じた」「副業でも本業でもいいから、個人事業主として活動したい思いがずっとあり、そのノウハウをここでなら学べると思った」など、根拠にしては小さいけれど、本気で感じた熱意の数々を、時間いっぱいかけて丁寧に積み上げて伝えていった。

陶芸専攻を卒業した・陶芸家の家に育った・陶芸教室に何年も通っている、などそれらしい経歴の全くない私を面白がり、私の歴史や経歴から見えている景色を面白がり、小さな熱意を信頼し、拾ってくれたサランさん。まさに拾う神であった。


動機に大小は関係ない。それが嘘でないのなら

こうして振り返って思うのは、何かに打ち込む動機に(規模やロマンの)大小は、さほど意味がないのじゃないか、ということだ。世界を救いたいとか、不老長寿を叶えたいとかいったデッカい野望、困った人を助けたいといったハートウォーミングな動機は、美しく、力強いが、だからと言って、小さな野望も悪くない。

でっかい野望に燃えたぎる瞬間もあれば、何も見えなくなってしまったような時も人にはあるが、どんな時も自分の心にだけは忠実に、嘘でない言葉と態度を選び続けていけば、必ずまた、おおきな野望の中に立ち戻れる。その道案内をしてくれるのが、拾う神たちなのだ。彼らは、ウソとホントに敏感だ。私たちがウソでない言葉を紡いでいる限り、彼らは私たちを面白がり、何度でも、拾ってくれる。(気まぐれで、見過ごされることもあるが)

拾ってもらった者は、そのまたとない恩を全力でエンジンに換えて、小さな熱意を、デッカい野望へと、ゆっくりゆっくり、育んでいったらいい。

拾う神は、私たちと私たちの夢とを繋ぐ架け橋だ。
私はきっと、これからも何度だって道に迷う。だから、彼らに心から面白がってもらえる「ホントの言葉」を、磨くことを怠りたくない。

マクドのハッシュドポテト美味い。こんなレベルだって構わないのだ。そこに本当の感動があるのなら。


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