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名前のない成人式

前回の祝日は、成人の日だった。特にあてもなく電車に乗っていたら、やけにソワソワした乗客が複数乗り込んでくるのに気づく。スーツで成人式に向かう新成人たちだ。そこへ、色鮮やかな振袖が加わり、いよいよ落ち着かないムードの車内が式典会場の最寄駅に到着すると、「おめでとうございます」の車内アナウンスと共に、一斉にソワソワたちが下車していった。あっという間の出来事だった。

遠ざかる20歳

「社会的に、自立したな。」としみじみ感じるようになったのが、ついここ最近のことだ。ようやく27歳になった。丸3年社会人をやって、一度の転職も経験して、お金や税金が何なのか、人が一人で生きていくことがどういうことなのか、を、身に染みて、まざまざ感じ始めた。投資をした分だけ未来は開けていくが、投資をし続けるのにも金がいる、というリアルな現実も含め、その決断は全て自分の手の中にある。これぞ自立ではないか。この感覚は、とてつもない喜びと、とてつもない恐怖を私にもたらし、徐々にその恐怖の割合が膨れ上がってくるのをひりひりと感じ始めている。

27歳の今まで、私の行動原理の第一位は「なるべく早い自立(自由)の獲得」ただ1つで、そこへ向かってまっしぐらだった。過干渉な環境で育ったからだと思う。
いざ自由を獲得してみて思うのは、幸せだということだ。自由は良い。嫌なことは極力遠ざけて生活しているし、自分が価値を感じるものばかりに時間と金を投じられることの納得感は凄まじい。

・食べたくないものは食べない
・部屋のレイアウトは心底自分好みにする
・テレビはつけず、必要情報はインターネットで補給する
・雨の日には家から出ない
・好きな洗剤と柔軟剤を使い、好きな時間に洗濯する
・好きな時間に起きて、好きな時間に寝る
・沸かした風呂には常に一番に入り、好みの入浴剤をぶっ込み、冷めるまで浸かる、冷めたらさっさと湯を捨ててその場で浴槽を洗う
・好きなアロマを存分に炊く
・元気のある時にまとめて皿を洗う
・気が向いた時に気が向いた方法で気が向いた範囲だけ掃除する etc.

幸せだ。これがいい。これでいい。心地いい。
そんなわけで、何ともあっさりと、たかが三十路手前で、夢が叶った。
叶ってしまって、推進力が明らかに減衰した。「満たされない思い」「ハングリー精神」「社会や大人への反骨精神」のようなものこそ、これまでの自分のアイデンティティであったとすら思うから、シンプルに言って、そのアイデンティティを失った。

上昇志向だった自己アイデンティティの揺らぎ

人生早々、あっけなく夢が叶ってしまって、ふと疑念が湧いた。
「自分はそこまで自立心が強いタイプでもないんじゃないか」
「主張強めの作家タイプor上昇志向高めのバリキャリタイプと信じてきたが、大人しい人ばかりの環境に育って相対的にそう感じていただけで、目指す夢のサイズ感はごくありふれたレベルなのでは」
この認知の揺らぎは、私のなかで凄まじい振動となって、にわかにアイデンティティの根底を揺さぶりだした。

例えばこれまで自分と無縁だと思っていた「ヒモ生活」が、充分に価値ある生き様だと思い始め、自分のニーズをいくらか譲っても無料で気楽に生きられる方法があるなら、それはそれで周囲に流され依存しあいながらしたたかに生存するのもオツだと、かなり正気で考える瞬間がある。
今日より明日、明日より明後日と、少しでも前進している実感がなければ死んだ方がマシだと泣きながら訴えていた10代の自分はどこへ行ったのか。

上昇志向だと言い張ることで何を守っていたか

子ども時代に生活が思い通りにならなかったことの言い訳として、「自ら荒んだ暮らしを選び、夢に向かって邁進してきた」と自己暗示をかけていた可能性を、ふと考える。確かに、そうしなければとても正気ではいられなかったような気がする。そして、「夢があっていいね」「やりたいことがあって羨ましい」と言われることで、さらにその信念を強めていったのではないか。

私は、成人式には出席していない。
しかし見事に大人になることができ、(というか、否が応でも大人になっていき)、そして見事に平々凡々、幸せである。上昇志向の魂が薄れゆくのを感じ始めた今、静かに、名前のない成人式を迎えるような気持ちがする。

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