1ステイ5000円の娘


実家の母から連絡があった。
「今度の土曜、パパが友達と泊まりで居ないから、家に来なよ。」

父が外泊するなど、何十年ぶりだろうか。もしかしたら、彼の人生で初かもしれない。
生涯1社に勤め倒した生真面目な会社員の父は、数年前に単身赴任先でうつ病を発症してから、ブレーカーが落ちたように仕事へのモチベーションを失った。会社を休職し、日がな年中、家のベッドの中か、リビングのテレビ前ソファに居ついて動かなくなった。
動かないので、腹囲はグングン大きくなっていく。暇を持て余し、連日のように通販を発注して、少し見ないと家の中が見覚えのないガジェットで溢れていく。

ストレス発散の術を、買い物や買い食いなどの1人遊びにしか見出だせない、孤独で不器用な父。現役時代から社交性とは縁遠かった父に、この期に及んで泊まりで遊べる友達とかいう存在がいたことに少し驚くが、そんなことはまぁどうでもいい。

私は、実家の家があまり好きではない。
多感な時期のほぼ全てを過ごしたあの湾岸のエリアに踏み入るだけで、幼い頃から名前を付けられずに来た、様々な悔しさ、苦しさ、恨めしさが、成仏できない亡霊みたいに目と耳と鼻と肌から入り込んでくる。
最寄駅の発車チャイムすら、遅刻確定の絶望を噛み締めながら眠い目を擦っていた高校時代の朝を思い出して憂鬱になるくらいだ。


母からの連絡をボンヤリ見つめながら、その実家エリアに自分が遊びに行くところを想像する。

チャリで駅に向かう。駐輪場が、半日で100円。電車に乗って、運賃を払う。往復だいたい、2000円。何処かで昼ごはんを済ます。大体1000円。母の仕事が終わるまでの間、駅のカラオケで時間を潰す。大体2000円。
…ここまででざっと、5100円の出費は確実である。

5000円現ナマでくれるか、2000円の映画のレイトショー(ワンドリンク500円付き)と一皿2500円のリブロースステーキの奢りが無い限り、あのエリアの空気を吸う価値が見出せないなあ

母から連絡をもらった娘の瞬間4、5秒の思考である。
家に着き、「何、落ち込んでんの」と言われて答えた憂鬱への回答でもある。

本当に、笑えるくらい嫌な人間でうんざりするが、正直な感覚なのでそのまま伝えてしまう。「そんなもんか」と母は言った。
(そんなもんさ。)
悲しいし、苦しいけど、そんなもん。そんなもんでもいいじゃないか。

「停めてる駐輪場が、一泊すると倍額になるので」という理由で、「今日中に帰る」と言い張る私に、金は出すから泊まってけ、と母は譲歩してきた。
本当は、明日の昼に用事があるから、準備でバタバタしたくないだけだけど、金が出るならまぁいいか。金が出るなら。損はしてない。


翌朝、顔も洗わずいきおい家を出ようとする私に、母は5000円を現ナマで差し出してきた。テレパシーだろうか。
「これなら来た価値あったって思う?」

私は2、3秒考えて
「うん。」と言った。
これなら来た価値あったとは思わないけど、これなら来て損したとは思わないよ。


1泊5000円稼ぐ女。
ルールは、実家で母と過ごすこと。


「正月はまた、一日だけでもいいから、帰って来な。」

母は見送りざまの玄関で、早速次の「予約」を取り付けてきた。
私はそれに答えずに、またねと言った。ワンステイ5000円の女。
ワンステイ5000円の娘。

これがビジネスなら、もう一桁、確実に足りない金額。
爆安のアガリを握りしめて、私は早朝の下り電車に乗り込む。
安いね私は。まあそうか。
正月行ったら、お年玉とかなんとかゴネて、もう5000円はむしれるだろうか。


個別の人生が、金銭を介して交差する。
世界で2名だけに開かれた、有料サービス事業の話。

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