Rくんの話

 そんなんじゃないよ。君と私は今の距離感が丁度いいんだよ。

 初めて会ったのは、旧校舎の埃臭い一室で、君は十人そこら居る学生たちのうちの一人だった。三年も通っていれば殆どが顔見知りになるような小さな大学だったのに、集まった学生とは棲む世界がまるで違っていたようで、奇跡的にどの顔も私は知らなかった。半分部活のような、半分大学業務の補助のような仕事をこのメンバーとするのか。なるべく沢山のものを得て全員で成長するんだ。私だけではなく、学生も大学側の職員二人も、要はその場に居た全員が奇妙な熱を帯びていて、顔が火照って息苦しかった。

 慣れないタイトスカートを穿き、ネクタイを締めて企業回りをしたり、校内告知をするために立て看板にペンキを塗ったりと、私達の仕事は多岐に渡った。学生の集まりの例に漏れず、メンバーのうちの誰かの家に集まって鍋をつついたり、安い居酒屋の席で互いを労ったりすることはしょっちゅうだった。君はこの仕事を始める前からメンバーの一人Eくんと仲が良く、同い年のはずなのに兄弟のように良くつるんでいた。Eくんは私と同じ分担になったので、Eくんと私の二人、あるいは君とEくんと私の三人で活動することが少なくなかった。君はこの仕事のリーダーで、各グループの監督をする必要があるので忙しかったはずだ。自ら手を挙げるわけでもないのに、自然に皆が中心に据えてしまうような人が君で、上に立っても全然偉そうになんてないで、そつなく立ち回るのが君だった。

 打合せの回数がまだ二回か三回か、まだ活動の方向性も定まってないような時に、君の彼女が部屋まで迎えに来ていたことがあった。実際に彼女がなんのクラブに所属していたかは知らないが、女子の花形クラブであるラクロス部で軽やかにスティックを扱うような、あるいは余り浮ついていないテニスサークルで自在にラケットを振るうような、リーダーの君の隣にいるのが相応しい、華やかな顔の人だった。私なんかが到底太刀打ちできない、表舞台をずっと歩んできたような人。でもわざわざ彼の部活的な活動の場に来るあたり、束縛の気があるのかなと思わないでもなかったけれど。

 そんな訳で君は私の人生とは交わらない人だと思っていたから、気軽に話せたと思う。たまり場のようになった就職準備室の一番奥は他の事務室と同じようにドアがついていて、ポーチから中庭のようなところに出られた。すぐ脇に水道とコンクリートの張られたそれなりに広い場所があり、立て看板の制作や簡単な工作をするときはそこを使った。たまたま君と二人きりになった時、私はEくんの相談をした。

「今日中に作業したいって言うから準備して部屋に行ったのに、作業もそこそこに飲もうと言われて」

「紅茶さんはEのことどうなの?」

「最初は好きになるかなと思ってたけど、変な口実で呼ばれたのに醒めてしまって」

「まあそうだよなあ。でもEは不器用だからなあ。そういうところが良さでもあるんだけど」

 私はEくんが世間ずれしていないうぶなところは良いとも悪いとも思わず、気の持ちようでそこも愛せるとは思っていたが、彼が超の付く下戸であることの方が相容れないだろうなと思っていた。下戸ということはつまり、何を好んで食べるかということにも二人の間には乖離があることの証左で、食べてきたものが違うということは、体の組成、話す言葉も違うのだろうと思っていたからだ。Eくんの思惑に乗っかって恋人同士になることはきっと空気を吸うくらい簡単だっただろうが、その分私は簡単に飽きて、付き合っていたと言えないくらいの短い期間で別れてしまうのが目に見えていた。君の人生と私がクロスしないのと同様、Eくんの食卓、Eくんの人生は私とクロスしないという確信を君との会話から得た。

 Eくんより君が気になっていたからEくんを袖にした訳ではない。確かに君はEくん以上に見栄えのする人だったし、君の隣にいるのは楽しかった。でも彼女との絆は非常に強固そうで、そこを突き崩すのは出来る出来ない以前に正しくないことのように思えた。それに、私が君の恋人になったとしても、そのような強固な関係性を築けるとは思えなかった。私は君の境界線を踏み越えることはできないし、私の側にもこれ以上君を近付けたくはなかった。君は異性なのにフラットに付き合えるほとんど初めての人だったから、その貴重な綱を自分からは断ち切りたくなかった。多分君に「彼女とは別れた、君と付き合いたい」と言われたら、破滅の可能性を抱きつつもすぐにイエスと言ってしまっただろうけれど。

 君とは社会人になった後も度々会っていた。仕事帰りに二人でビル街を歩いた。といってもただ食事をするだけで、円満に交際が継続し、そろそろ婚約の話さえ出ていたはずの彼女に対して疚しい点は一つもなかった。お互い研修中とはいえ、全く別の業界に就職した君と情報交換をするのは楽しかった。私は在学中から今までにかけて、君との仕事とは全く関係のない人と交際して別れていて、社会人になった当初は恋人がいなかったが、君との食事が恋人とのデートの補償行動ではなかったと思う。いや利用したいくらいの気持ちはあったかもしれない。白雪姫が七人の小人の分け前を、ほんの少し貰うくらいの気持ち。

 ある秋の夜、私と君は普段とは違う駅で集まって食事をした。後輩が後から合流する予定だったからだ。その日私は珍しく酔いが回っていた。私がふらふらとしている脇で、君は後輩と目配せをして何やらひそひそと話していた。酔っている私にもなんとなくわかった。

 ああ君は、私が君に恋をしていると誤解していたんだね。

 男女間の友情という、危ういバランスと付かず離れずの距離感でドライブするのがこのゲームのルールだと思っていたのは私だけだった。私と二人きりの時はひた隠しにしていた、「自分に惚れている女」として私を扱っていることを、君が後輩の前で見せたことに私はがっかりした。そして気付いた。私が矜持としていたのは、私が彼女と同じ恋愛の土俵に立っていないこと、君にとって彼女とは別枠の存在であるということだったことに。私の恋は私が認識したと同時に消える運命だった。私の酔いは一瞬にして醒めていたが、そのまま酔ったふりをしていた。

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