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あなたは誰だったんだろう

 おばあちゃん、あなたは本当に、本当にいじわるばかりしてきたよねえ。なんでそうだったの?

 祖母が亡くなって幾日か過ぎたある時、母が遺影と骨壺に向かって言った言葉だった。

 しかし私は、母がそれを言った現場に居合わせたわけではない。両親と私で寿司屋に言った時に母本人から聞いた話である。
 人が亡くなると、寺との関係がぐっと深くなる。宗派や地域によって、あるいは遺族の事情によってはそこまで手厚く弔わなくなっているかもしれないが、四十九日までは七日毎に弔いをするのが本式だそうで、主を失った祖母宅にも、僧侶がお経を読みに来た。そのうちの三回目か四回目かで私も同席することになり、お勤めの後、せっかくだから寿司でもということになったのだった。

 私の祖母は苛烈な人だった。大地主の一番上の娘で、お嬢様女学校に通っていた頃は戦時中。授業の代わりに軍需工場に行ったこともあるらしかった。祖父との間には子供が出来なかった。そのため、祖父の親戚筋のうち、子沢山だった家から私の父が選ばれ、二人の養子になった。だから私と祖母とは血が繋がっていない。母は、祖母の性格がキツいのは子供を産んだことがないからだとか、子育ての大変さを知らないからだとか言った。
 
 しかし、私自身は小さい頃は大変なおばあちゃん子だった、らしい。確かに、私が園芸を好きになったのは確実に祖母の影響だったし、手芸全般が苦手かつ不器用だった母に代わって、編み物を教えてくれたのも祖母だった。
 今、私は自分の子どもに編み物を教えてほしいと言われることがあるが、正直に言って、人に編み物を教えるのは難しい。きっとたどたどしかったであろう私の針運びを、手を出しすぎずに見守り、何度もやり方を教えてくれた祖母はとても偉かった。今振り返るとそう思う。
 私が小学四年生のときに初めて作った毛糸の布もどきは、本式の(というのは、羊毛100%という意味だ)コーラルピンクの毛糸でできたもので、しかし私の手が強いせい、つまり、毛糸を引っぱって編みすぎているせいで、編み進めるうちに生地が固くなり、ほとんど台形のような形になってしまった。棒針が抜けないほどぎちぎちになったそれを見ても、祖母は怒らずに、根気よくひと目ひと目ほどいてくれた。
「毛糸はいくらでもほどいて直せるのがいいところだからね」
 最初にしては上出来だとさえ言ってくれたと思う。
 また、旅行好きな祖母は、夏休みになると私と妹とを泊りがけの旅行に連れて行ってくれた。覚えているだけでも、高知や富山に行った覚えがあるし、もっと近場の旅行や、日帰りの旅行にも連れて行ってくれたはずだ。高知に行く時は初めて飛行機に乗ったし、黒部ダムは子供心に恐ろしかった。騒がしい子どもたちがいない夏休みの二、三日は、母にとっておそらくホッとする時間だったろう。
 私の旅行好きも、もしかしたら祖母の影響があったのかもしれない。
 
 しかし、祖母は最初に述べたように、激情の人でもあった。
 たとえば母が都会に行く用がある日、必ずと行っていいほど体調を崩す。体調をうまく崩せなかった日は、母に都会での用事を頼む。無論、体調不良は詐病である。
 「あっちは散々旅行に行ったり、楽しいことばかりしているくせに、こっちがたまに出掛けるといつもそうだから、本当にうんざり」というのが母の口癖だった。祖母のそれは嫁いびりというよりは全方位のいびりだったようで、祖母よりも立場が上のはずの曾祖母の外出の折も、祖母はそのようにして何ごとかを頼んだり、不機嫌になったりしていたらしい。

 そのうちに、おばあちゃん子だった私は祖母宅に近づかなくなった。そうなったのは年齢のせいもあった。母は「昔はおばあちゃん子だったのに冷たいわね」と言った。母が「あっちはただただ可愛がればいいんだから楽よね」と言うのを聞きたくないからそうしたのもあるのに、とちょっと思った。

 そんな祖母は晩年認知症に罹り、苛烈な性格がますますひどくなった。母が自分の家から金を盗んだと、母自身や自分の兄弟に言い募ることもあったらしい。
 普段食事の準備や介助で世話になっていたくせに、母のことがどうにも信用ならなかった祖母は、千円札を二、三枚小分けにして、台所の床下収納や、居間の小物入れ、仏壇のある部屋の仏具の入っている棚などに隠していた。そして百舌鳥のように、隠した場所を、いや、隠したことさえ忘れてしまう。それで、「おろしたはずの金が消えた! 盗まれた!」と騒ぐのだった。当時、金銭絡みの妄想は認知症の典型例だということは、あまり知られていなかった。

 段差の多い祖父母宅での転倒や、ガスの消し忘れ、もう吸っていることを隠すだけの矜持もなくなった煙草によるボヤ騒ぎなどがあり、ついに祖母は施設に入った。施設に入った祖母はだんだん私の名前を忘れ、しかしまだ「どなたさんだぎゃあも」と言うのはマシな方で、私の子供を連れてきても不思議そうな顔をし、知らない子供として自分の曾孫を可愛い、可愛いと撫でた。
 ある時、何気なく「ほら、編み物を教えてくれたことあったでしょ」と言った。それを聞いた祖母はぽかんとした顔をして、「そんなこと、あったきゃあも」と言った。全く身に覚えのない顔だった。
 その時、私は「ああ、私の知っていた祖母は死んでしまったんだ」と思った。名前を思い出せなくなるということは知識として知っていたけれど、思い出がごっそり、その人から消えてなくなるのが認知症だとは思っていなかった。
 だから祖母の葬式は私にとって、妙に白々しいものに映った。もう随分前に死んでしまった人のお弔いを、今更していると思ったのだ。
 「故人のあゆみ」として葬儀場の人が読み上げた「孫とのひととき」で、「孫の◯◯には機械編みを教え」というのも間違っていたし。私は棒針編みとかぎ針編みは教わったけれど、機械編み用の機械を触らせてもらったことはなかった。
 通夜でも葬儀でも、祖母は「多趣味で優しく、動物を愛した人」という紹介のされ方をしていたが、他の参列者はともかく、私達家族からは、誰か別の家のおばあさんの葬儀のように感じられた。確かに、祖母は晩年犬を飼っていたが、世話は母に任せきりになっていた。

 冒頭の言葉に戻る。その日、母は僧侶が辞した後、ふつふつと何か言いたくなって、これまで積もりに積もったことを遺影に向かってぶちまけたらしい。その席には父もいたそうだが、父は母がこれまでされた仕打ちについて吐き出しているのを黙って聞いていたそうだ。そして一言、「そんなに色々なことがあったんだな」と言った。父は会社員時代、朝は七時前に家を出て、帰宅はしばしば夜の十一時を回った。
 私は葬儀の際、母が表も裏も「優しいおばあちゃんを施設に入れてしまった悪い嫁」「お世話になった姑の死を心から悼む嫁」になっていたのを、それが大人の対応であるとは重々承知の上で、ひどく不自然だと感じていたが、寿司店でその話を聞いた時、「やっぱりあの時の母は本当の母ではなかったのだ」と妙に納得していた。
 とはいえ、私がここで過剰に同意してしまうと妙な雰囲気になるのはよくわかった。私は何も言わずに、同意にもならないように、ごく軽く頷いた。

「でもね」と母が言った。
「ついこの間、小川さん(仮名)がお参りに来てくださった時、小川さんは『おばあちゃんには本当によくしてもらって』と言って泣いておられたのよね」

 小川さんは、祖母の持っていた畑を貸していた人である。ざっくり言うと、畑として登録している土地は、耕作をしていないと畑ではないとみなされ、税金が上がったり登録を変えろと言われたりする。高齢になった祖母は、自分だけでは耕作できない場所を人に無償で貸していて、その一人が小川さんだったのである。

「作物の育て方についてもそうだけれど、私が姑との関係で悩んでいるときや子育てで行き詰まっているときも、親身に話を聞いてくださって……」と小川さんは言っていたという。

「否定するのも悪いから黙って聞いていたけれど、『それ、誰のこと?』って思っちゃった。しかも子育てって、あの人は子育てをしたことなんてないのに」

「どうかなあ。岡目八目ということもあるんじゃないの」

 それに、土地を貸してくれていた人のことを悪くは言わないのではないか。死人に石を投げる人はあまり居ないのだしと私は言い添える。

「だけど、小川さんは本当に心からそう思っているように見えたのよね。だから、私が見ていたおばあちゃんは、一体誰だったんだろうと思って」


 ここからはまた別の話である。

 私は、同じ系統の仕事を何社かとさせてもらっているが、そのうち、一番額の大きい会社の仕事が一番苦手だ。というのも、その会社のマニュアルは細かすぎ、また合理的でないものも散見されるからだ。自分で納得できないマニュアル内の項目は体が拒否するらしく、どうしても見過ごす率が高くなってしまう。
 その会社には、私のような外部業者をチェックする役割の人が多数在籍している。誰がどの人の仕事をチェックするかは受注状況によるらしく、また基本的にはあまり偏らないようになっているのだが、チェック担当者の中で、私が特に苦手とする人が一人いた。
 その人のチェックはとりわけ厳しく、細かいのだ。
 その会社の仕事では、時々、自分の仕事ぶりを自分で確認できる機会が訪れる。そういうとき、私はチェック担当者が、軽微なミスだからと、私にわざわざ指摘せずに直してくれたことを知ることがあった。
 しかし、私が苦手とする山辺さん(仮名)は、絶対にミスを見逃しはしないで、必ず翌週に詳細な指摘ペーパーを寄越すのである。だから仕事の受け渡しのとき、山辺さんが私の次の仕事を持ってくると憂鬱になった。再来週はどっさり指摘が来るんじゃないかと思ってしまうのだ。
 ちなみに、こう書くと私が毎回指摘を受けるようなポンコツ仕事人であるように思えるかもしれないが、そこまでの頻度ではないことを、私の名誉のために申し添えておく。

 さて、今年の春、外部業者の勉強会兼懇親会が別の会社で開かれることになった。コロナ禍直前に開催を計画していたのが頓挫して、久しぶりの開催だから是非という事務局の人の言葉に押されて参加することにしたのだが、その会場に、なんと山辺さんが居たのである。
 私はそもそもマスクを付けた山辺さんしか知らない。背格好の似た別人かもしれない……。しかし、名札には「山辺」とあった。本人だ!!
 その後、山辺さんも私の存在にようやく気付いた。
「わあああああああ!!!!」
 山辺さんは私以上に動揺していた。

 勉強会の後、事務局の人が用意してくださったお菓子や飲み物を交えた懇親会になった。山辺さんと同じテーブルに座って、なぜこの会社でも働くことになったのかとか、この業界での仕事歴はどれくらいなのかという話をした。山辺さんは、私が思っていた以上にベテランだったし、私の仕事先である残りの二社とも取引されていた。
「なんかお二人、似てらっしゃるんですね」同席した他の人がこう言った。
「だって、複数の会社で仕事をしている理由を、お二人とも『この仕事の本当のところが知りたいから』っておっしゃってましたよね」

 そう、私達は似たもの同士だったのだ。

「あの会社のルール、細かすぎるんですよ。私の指摘は、私の本心ではないです」と山辺さんは言った。
 とはいえ、やっぱり、山辺さんはあの会社の中で、とりわけ真面目で厳しいチェック担当者だとは思うけれど。

 そんなわけで、私は山辺さんがメインで所属する会社の仕事を、以前よりは苦手だと思わなくなったのだった。


 祖母と母も、どこかで自分の見ている相手の姿が、その人の全てではないと気付く瞬間があったなら、ああはならなかったのではないか、と少し思う。それは多分、綺麗すぎる、能天気な見方に過ぎないということは分かっているけれど。
 私は、「母から見た祖母」の話しか詳しく知らなかった。だから祖母のことを悪の権化のように捉えるようになってしまったが、そこに母自身の認知の歪みが全く無かったとは言えない。というか、実はかなりの部分で母による脚色が施されていたのではないか。
 親の影響を排除することは難しかったと言えばそれまでかもしれない。
 それに、母に私が何かを言って、母の祖母像を変えるのは無理だったと思う。
 しかし、私は私自身として祖母と関わり、私なりの祖母像を形作ることは出来たのかもしれないと思うのである。

 山辺さんとのことのような、奇跡的な偶然が発生しない限り、人の印象はなかなか変えられないものだろう。それでも、「あの人はどうせこうだから」と雑に枠に嵌めて、その人自身を見ないようにしてやり過ごすことを減らせるといいなと思う。そういう、粘り強く、些細なサインを観察しフィードバックするような、手間のかかるやり取りが、きっとその人をよりよく形作るし、私のこともまた、相手の中でよりよく形作られるはずなのだ。

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