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芦屋じゃないけど「芦屋ボウル」

これも小学校高学年の頃の話。当時はボウリングが一大ブームになっており、西城正明や須田開代子などプロボウラーも続々登場し、中でもパーフェクトゲームを達成した中山律子は連日TVCMを飾るほど大人気だった。

それだけにボウリングがしたくても予約が取れないような状況であり、各地のボウリング場は連日賑わっていた。子供心としてはそんなお祭り騒ぎのところに興味がわくことは自然なことで、ボウリングをするわけではないが通うようになる。

もちろん我が町にも多数のボウリング場はあった。地元の甲南ボウルや本山ボウルそして小生たちが入り浸っていた芦屋ボウル。正式には「芦屋トーヨーボウル」というらしいが、小生たちは普通に芦屋ボウルと言っていた。

思い出深いのは、芦屋ボウルのイベントに勝呂誉と大空真弓のおしどり夫婦ペアがやって来たときのこと。映画かテレビでしか見たことのないスターが地元にやって来たのである。それは騒がない方がおかしいというくらいの盛り上がりだった。

また芦屋といいながらそれは43号線沿いの深江にあり、拡張版芦屋の元祖みたいなモノである。千葉にあるのに東京ディズニーランドみたいな。それからか深江の芦屋寄りにあるマンションはやたらと芦屋を冠するようになる。物件販売を考えれば致し方ないが、どうなんだろうかと考えさせられるのも心情としてはある。

小生たちがなぜ芦屋ボウルに入り浸っていたか、それは1階のフロアにあったピンボールマシンが魅力的であったからといえる。スタート待ちをしているお客のために設置されているピンボールマシンではあるが、それほど打っている感じも無く、しかも子供が遊べる程度の料金だったことからも嵌まるようになる。

なんと言ってもゲーム盤面のデザインとボールがヒットしたときのサウンドの素晴らしさは子供心をわしづかみにして、目眩く外国文化の世界に没入させてくれたのである。しかも腕を上げれば点数はどんどん上がり、規定の点数を超えると「パカーン」という痛快な音とともにボーナスゲームがカウントされ、前人未踏的な点数まで達すると最高15ゲームまでプラスされるのである。やはり今も昔も子供はゲーム好きなのである。

で、そのボーナスゲームだが、ゲームに慣れすぎて飽きていた小生たちは、たまに暇にしている大人たちに声をかけて売ろうとしていた。「おっちゃん、1ゲーム30円やけど10円でどう?」と直に値段交渉。いわゆる戦後の靴磨きのバイトみたいなモノである。もちろんボウリング場の人には内緒だ。子供の理屈としては「自分が獲得したボーナスゲームだから自分に権利がある」てなことだったかな。大人たちも面白がって子供の悪戯に付き合ってくれていた。ポリコレの現代からすると悪い時代であるが、いちいち目くじらを立てない気楽な時代でもあった。

ある日のこと、いつものように遊んでいるとフロアの中央で「ガッシャーン!」という大きな音がする。他の上級生グループが何かのきっかけでフロアにあった両替機を倒して散乱した硬貨を拾い集めて逃走するという事件が勃発。さすがにそれは洒落にならない。小生たちにはまったく関係はないのだが、やばいムードがフロアを支配して仲間と共にネズミの如く一緒に逃げていた。それをきっかけにしてボウリング場に行くことはなくなってしまった。芦屋ではない芦屋ボウルの話である。






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