水風堂

気がつけば年金受給クリエイター、仕事ギアを二段ほど落として日々を楽しんでいます。で、自…

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気がつけば年金受給クリエイター、仕事ギアを二段ほど落として日々を楽しんでいます。で、自分のこれまでを振り返るべくnote発信をしてみたいと思いました。テーマは“ashiya complex”。下町育ちの私が人生の半分を芦屋で暮らしてみて体験したことや感じたことを綴ってみます。

記事一覧

竹園別館Sam's place

結局のところバイトに明け暮れ受験対策をしなかった小生は、芦屋にあるデザイン専門学校への道を選ぶ。近所にある原チャで通える学校、まさにイージーな人生設計なのだが、…

水風堂
1か月前
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朝日ヶ丘のバイト天国

1978年にタイトーが発売した「スペースインベーダー」は、世界的なヒットとなった伝説的なシューティングゲームだ。当時は大人も子供もこぞって熱中した社会現象と云えるほ…

水風堂
1か月前
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ガイジンさんは治外法権?

下町で地味に育った小生からすると、山ノ手のお金持ちさんと並んでガイジンさん(近年では差別用語とも言われている、当時はそれが普通で逆に外国人は舶来品と同じで上位に…

水風堂
1か月前
6

豊かさの等高線

阪神間には東西に阪神・JR・阪急の3本の電車が平行して通っている。海岸線を縫うように走っているのが阪神電車。国道2号線の山側あたりがJR。山手の住宅街を突き抜けて走る…

水風堂
1か月前
5

ドラマ「雑居時代」が描く人生観

1973年10月から1974年3月まで放送された「雑居時代」は、DVDとして蘇るほどファン層が多い名作ドラマである。大まかなストーリーとしては、集合住宅で庶民的な暮らしをし…

水風堂
1か月前
7

高校進学、1年サイ組。

無事に高校へと進学できた小生ではあるが、そこは県立とは名ばかりの建築現場さながらのバラック校舎だった。その名は兵庫県立甲北高校。新設の高校である。この記憶は芦屋…

水風堂
1か月前
3

ツナボール vs ミートボール

いま振り返ると昭和という時代は日本の高度経済成長と共に海外から衣食住のさまざまな異文化が入ってくる刺激的な時代だったように思う。普段使いの国産品に対して外国製の…

水風堂
1か月前
5

芦屋からの転校生

中学2年生のことだったと思う。突然芦屋から二人の転校生がやって来た。一人は加藤君(仮称)。黒縁めがねでがっちりとした男子。DJ小林克也のような低音の声が印象的だっ…

水風堂
1か月前
2

芦屋じゃないけど「芦屋ボウル」

これも小学校高学年の頃の話。当時はボウリングが一大ブームになっており、西城正明や須田開代子などプロボウラーも続々登場し、中でもパーフェクトゲームを達成した中山律…

水風堂
1か月前
4

天井川と芦屋川

昭和40年代といえば、日本はまさに高度経済成長のまっただ中でオリンピックや万博が日本の未来をグングン引っ張っていた感じがしたものだ。もちろん子供は日本の経済状況な…

水風堂
1か月前
2

すぐそこにある芦屋という別世界

話は昭和30年代から40年代まで遡る。小生はごく普通の家庭に生まれ育った三兄妹の次男である。父親は大手重工業で列車を作っており、母親は銀行勤務の経験を持つ。祖父から…

水風堂
1か月前
2

35年間の芦屋への旅を終えて青木へ帰還

2023年4月、小生は長年住み慣れた芦屋から実家のある神戸市東灘区の北青木へと妻と共に引っ越した。神戸を出たのは30歳の頃、フリーランスとして独立したばかりであり、こ…

水風堂
2か月前
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竹園別館Sam's place

竹園別館Sam's place

結局のところバイトに明け暮れ受験対策をしなかった小生は、芦屋にあるデザイン専門学校への道を選ぶ。近所にある原チャで通える学校、まさにイージーな人生設計なのだが、入学した芦屋芸術学院はプロの育成を前提としており、そんな若者の甘えを許してはくれなかった。

予想以上にハードなカリキュラムは、170名いた同期が夏休みを跨ぐと100名を切り、卒業する頃には50名ほどに減るというパンチ力を秘めていた。もちろ

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朝日ヶ丘のバイト天国

朝日ヶ丘のバイト天国

1978年にタイトーが発売した「スペースインベーダー」は、世界的なヒットとなった伝説的なシューティングゲームだ。当時は大人も子供もこぞって熱中した社会現象と云えるほどヒットしたゲームであり、テーブルタイプの業務用だったことから設置しているゲームセンターや喫茶店は大賑わいだった。それだけになかなか手に入れることのできないゲームだった。そんなゲームをなんと全席に配置した喫茶店が芦屋の朝日ヶ丘にあった。

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ガイジンさんは治外法権?

ガイジンさんは治外法権?

下町で地味に育った小生からすると、山ノ手のお金持ちさんと並んでガイジンさん(近年では差別用語とも言われている、当時はそれが普通で逆に外国人は舶来品と同じで上位にあった)も苦手な部類であった。神戸という地域性から高校の同級生にも中国人や韓国人は数名いたが、普段彼らを外国人と意識することはない。家に遊びに行ったときに母国訛りが強いご両親の口調に違和感を持ったぐらいだった。

予備校にも通わずズルズルと

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豊かさの等高線

豊かさの等高線

阪神間には東西に阪神・JR・阪急の3本の電車が平行して通っている。海岸線を縫うように走っているのが阪神電車。国道2号線の山側あたりがJR。山手の住宅街を突き抜けて走るのが阪急電車である。小生の暮らす青木は下町情緒溢れる阪神沿線にあり、JR・阪急と比べて駅間が狭く駅の数がやたらと多いのが特徴だ。

地元で暮らしている分には気にならないが、エリア外に出るようになると他人の評価が気になってくることは往々

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ドラマ「雑居時代」が描く人生観

ドラマ「雑居時代」が描く人生観

1973年10月から1974年3月まで放送された「雑居時代」は、DVDとして蘇るほどファン層が多い名作ドラマである。大まかなストーリーとしては、集合住宅で庶民的な暮らしをしていた父と娘5人の家族が、父(大坂志郎)の友人が大使として海外に赴任することをきっかけにその大使の豪邸に一家で引っ越すことにはじまる。だが、一つだけ条件としてカメラマンをしている大使の息子(石立鉄男)も同居するという設定である。

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高校進学、1年サイ組。

高校進学、1年サイ組。

無事に高校へと進学できた小生ではあるが、そこは県立とは名ばかりの建築現場さながらのバラック校舎だった。その名は兵庫県立甲北高校。新設の高校である。この記憶は芦屋とはあまり関係はないが面白いので記録しておこう。

甲というのは地元では六甲山の意味であり、北というからには六甲山の北側にあるべきなのだが、所在地はなぜか灘区にある王子動物園の中。正確には動物園の敷地と同じエリア内にある原田の森・関西学院跡

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ツナボール vs ミートボール

ツナボール vs ミートボール

いま振り返ると昭和という時代は日本の高度経済成長と共に海外から衣食住のさまざまな異文化が入ってくる刺激的な時代だったように思う。普段使いの国産品に対して外国製のモノは“舶来品”と呼ばれ、ただ持っているだけで自慢だった。とにかく“舶来品”は偉いのである。

庶民にとって海外旅行などは夢のまた夢、ドラマの最後にヒロインが海外に旅立つ設定がよくあったが、手の届かない海外へ行かせて強引に話を終わらせるとい

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芦屋からの転校生

芦屋からの転校生

中学2年生のことだったと思う。突然芦屋から二人の転校生がやって来た。一人は加藤君(仮称)。黒縁めがねでがっちりとした男子。DJ小林克也のような低音の声が印象的だった。もう一人は山本(仮称)さん。髪を一つに束ねている蒼井優のようなシュッとした女子。二人ともに本庄中学にはいないタイプだった。

転校の理由はというと簡単で、高校進学のための学区的なことである。当時の芦屋からは神戸高校を受験することができ

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芦屋じゃないけど「芦屋ボウル」

芦屋じゃないけど「芦屋ボウル」

これも小学校高学年の頃の話。当時はボウリングが一大ブームになっており、西城正明や須田開代子などプロボウラーも続々登場し、中でもパーフェクトゲームを達成した中山律子は連日TVCMを飾るほど大人気だった。

それだけにボウリングがしたくても予約が取れないような状況であり、各地のボウリング場は連日賑わっていた。子供心としてはそんなお祭り騒ぎのところに興味がわくことは自然なことで、ボウリングをするわけでは

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天井川と芦屋川

天井川と芦屋川

昭和40年代といえば、日本はまさに高度経済成長のまっただ中でオリンピックや万博が日本の未来をグングン引っ張っていた感じがしたものだ。もちろん子供は日本の経済状況などまったく関知しないわけで、新聞やテレビで大きな見出しが立とうとも、なにやら大人は難しいことで揉めているようにしか見えなかった。

小生が暮らす本庄小学校・中学校エリアも中小企業の工場が建ち並びブルーカラーの人々で賑わっていた。またウチの

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すぐそこにある芦屋という別世界

すぐそこにある芦屋という別世界

話は昭和30年代から40年代まで遡る。小生はごく普通の家庭に生まれ育った三兄妹の次男である。父親は大手重工業で列車を作っており、母親は銀行勤務の経験を持つ。祖父から受け継いだ家は小さな庭のある木造二階建て、かなり年季の入った感じであり、天窓やへっついさん、井戸もあったし便所は外、玄関には松の木もあった。サザエさんの家ほど広くはないが、まあ昭和のそれなりの家である。

当時は子供が家事を手伝うことは

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35年間の芦屋への旅を終えて青木へ帰還

35年間の芦屋への旅を終えて青木へ帰還

2023年4月、小生は長年住み慣れた芦屋から実家のある神戸市東灘区の北青木へと妻と共に引っ越した。神戸を出たのは30歳の頃、フリーランスとして独立したばかりであり、これからのキャリアに不安だらけであった。

思えばここを離れて35年にもなるのかと改めて感慨にふける。実家の二階の窓から見える神社は、子供の頃から見慣れたものであり、勝手ながら八分咲きの桜が小生の帰還を歓迎してくれるかのようであった。

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