国宝犬山城 天守閣2

大手道を上っていくと城の案内板がある。
江戸時代の地図の横には「城郭」の構造と役割が記してある。まずは第一防衛ラインとして松之丸と呼ばれる曲輪が最下段にある。空堀、水堀で囲まれ東西二つの櫓に守られている。黒門をくぐると右手に桐ノ丸、杉ノ丸左手に樅ノ丸そして天守閣のある御本丸だ。本丸は弓、鉄砲、大砲と三つの櫓に守られている。地図をあらためて見るとそれはまるで棚田のテッペンに天守閣があるようだ。

なるほど、城めぐり初心者の私には随分参考になる。「まがりわ」ではなく「くるわ」と読むのか。「ろ」ではなく「やぐら」と読むんだな。などと1から勉強していたら、次の目的地明治村に行けなくなってしまう。日が暮れる。天守閣だ。

本丸の門をくぐると砂利の庭園の奥に天守閣がある。やっと着いた。空いている。行列を整理する鎖の仕切りがあるということは、混む時は混むのだろう。白い石畳が入り口まで続いている。脇には緑の木陰にに緋毛氈の縁台がある。風情がある。

ここでまた案内板を読んでしまった。これはもう習性になってしまったようだ。

犬山城の歴史
犬山城は天文六年(1573年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました〜中略〜明治四年(1871年)廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など、天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。明治二十四年の濃尾震災で〜中略〜その後、伊勢湾台風などでも被害を受けましたが、昭和三十六年(1961年)から40年まで四年間をかけて解体修理をおこないました云々とある。英語でも表記されている。

廃藩置県に、大震災に、巨大台風被害か。なるほどよくぞここまで困難に遭いながら修繕、改修、保存してきたものだ。そのための苦労は計り知れない。平成16年(2004年)まで城主の末裔個人所有だというのだから驚きだ。その後財団法人に移管されている。このあたりから現在の国宝犬山城の観光地としての基盤が固まったのであろうか。SNSの爆発的普及も追い風となったであろう。

やっと天守閣入り口まで辿り着いた。ミスト冷房がありがたい。中に入る。赤い絨毯に黒光りした木の階段がある。狭い。暗い。異様なほどに急勾配の階段はまるで天井裏に入っていくようだ。手のひらを広げて測ってみる。幅はおおよそ20センチくらいか、大人の足がはみ出すほど狭い。踏み場がほとんどない。高さは30センチだろうか。だとすると三角関数計算サイトの出した角度はおよそ56度はある。

2階、3階と登っていく。電球が灯されている破風と呼ばれる衝立をした窓から外の景色が垣間見える。展示物は後で見ようと展望台を目指した。最後の階段を登り切ると、光が差し込む赤い敷物の部屋に入った。ここでやっとガイドさんらしき人がいた。回廊に出て驚く。素晴らし見晴らしだ。だが、怖い。勾配の着いた板の回廊は外側に向かって傾斜している。しかも欄干が低い。

油断すると落ちる。特に木曽川に面した北側は断崖絶壁である。人が少なくて良かった。重心をやや壁側にして、恐る恐るではあったが展望を堪能した。ガイドさんらしき人が小牧山城、岐阜城など遠くの山々を説明してくれた。東にライン大橋、西に犬山橋、川面は鏡面のようで2隻の鵜飼観覧船がゆっくりと白波を引いていた。

つづく







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