八百津町の夏11

女将さんの目が三角になった。「見てない!」それはまるで街角インタビューでおバカな女子高生が現職の総理大臣を答えられない時の驚きに似ていた。

「半沢直樹は面白かったんですよ。その続編も観ました。他のドラマもちょっと観ました。でも、半沢直樹の面白さを越えられないんですよね。昨夏ハヤブサなんとかというの放映していたのは知ってましたけど、そもそもドラマを観る習慣がないんです。それに、なんとなくのこれまでの経済小説や勧善懲悪とは趣向が違うかなって思って」咄嗟に言い訳をした。

ズレた話には耳も貸さずに、私を諭すように「ほら、倍返し」と、レジ横に積んである倍返しせんべいを指差す。さらに「倍返しも彼が考案したフレーズだ」と強調する。なるほど、倍返しは一般的にも通用する言葉だが、上司に対して、しかも一介の課長が役員に対しては現実世界ではなかなか出てこないフレーズではある。この色紙の三文字の造語もそうだという。つまり、

彼には創造力がある。そう言いたいのだ。

続け様に「あなたならどう読む?」と、色紙に書かれた漢字三文字の意味深な造語を指差す。「そのまま音読みですかね〜」と素直に答えると「私もそう読んだ」と女将さんも字義通りだ。深い意味があるのだろうか。

忘れていた。せんべいだ。買い物だ。結局節約して玉子せんべいを購入した。お賽銭箱にケチって1円玉を投げ入れたような心持ちで店を後にした。聞けば、熱心なファンはわざわざ池井戸氏のお母さんのところを探し当て追っかけをするという。熱烈なファンというものは小説家の世界でもあるのか。「そっとしてあげればいいのにね」思わず口をついてでた言葉に、それには同意の表情を浮かべた女将さんだった。店を出ると蝉時雨の中、夏真っ盛りの日差しと澄んだ空に少しの未練を残して、この町を後にした。

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