金華山岐阜城3

伝一ノ門跡を抜け登っていくと「岐阜城歴代城主」の看板がある。鎌倉時代に幕府官吏として任ぜられた二階堂氏が金華山の主となったのが始まりとある。その後室町幕府守護代が歴任し斎藤道三の手に落ちそれを織田信長が陥落させ池田輝政、豊臣そして織田秀信(三法師)と城主が目まぐるしく変わっている。要するにのっとり合い。
よほど重要な拠点だったのであろう。

いかん、こういうのを読んでいると日が暮れる。先を急ごう。伝馬場跡・下台所、伝二ノ門を通過するとようやく黄色の幟に織田家家紋が立ち並ぶ天守閣に到達した。ここで「岐阜」の由来を知ることとなった。ドカーンと「岐阜」命名の由来と銘打って「周の文王が岐山から起こり、天下を定める」に倣ったものとある。岐阜の「岐」はここから取った。さらに岐阜の「阜」は孔子の生誕地「曲阜」から取った。二つをつなげて「岐阜」にしたとある。孔子と文王の巨大なイラストとともに解説されていた。

それまでの稲葉山から岐阜に名前を変えてしまうところも、何だか信長のイメージにしっくり来た。謎が解けた時のスッキリした感覚を味わいながら、楽市楽座、関所の撤廃、城下町の整備、鵜飼の復興など信長の政治家としての功績をサッと見て足早に回った。小さなケースに黄金の信長像があったが、フィギュアショップにもありそうで何だか滑稽だった。それよりも出土された天目茶碗、青貝入黒漆喰鞍に目を奪われた。

信長のおもてなしと題して、魅せることにも重きを置いた織田信長がもてなした料理の数々も写真とお品書きがあった。何でも山の中腹にかつては居城があり、それを復元したものが映像にあった。資料館を出るときに職員さんに営業時間を聞くと夜の8時までだという。5時までだと思い込んで大急ぎで小牧山城から飛んできた私は唖然とした。たしかにポスターで紹介されていた夜景は美しかった。夜になれば、展望台のバーベキューは夜景目当てで賑わう地元のカップルなどが訪れるのだろう。

帰りのロープウェイでガイドさんが、宣教師ルイス・フロイスをして「銀閣よりも美しい」と言わせしめたと紹介されていた信長の居城跡を見学して岐阜城を後にした。夕方5時でも西日を浴びて真夏の熱気で汗が滲んだ。下山して向かいのファミリーマートで一服しながら金華山を見上げると、山は夕日に照らされ美しく輝いていた。緑の山間を白いロープウェイがゆっくりとすれ違うのを麓から眺めていると、たった500年前は血で血を洗う殺し合いが繰り広げられていたことが嘘のようだ。

つづく

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