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父を看取れば

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2018年の夏に日本にいる父が脳梗塞で倒れました。そこから約半年の家族のドタバタを通して、日本の「看取りと介護」について考えてみました。
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仰天!アメリカの介護事情(3)

介護において一番「苦しい」のは中流の下の層であろう、ということを前回書いた。日本でも同じなのかもしれないが、ここアメリカでは、一つ大きく異なる点がある。 「個の文化」が確立し、尊重されている点だ。これは、まず「親世帯と子供世帯は別個のもので、介護も別個」という意識が強い。この点が、「親の介護は子供がすべき」という言わずもがなの慣習が当たり前の日本とは違う。例えば私の周りでは、「老親の”支援”はするが、下の世話などはやらない」という態度の人々が多数いる。米国の小中学校の掃除と

仰天!アメリカの介護事情(2)

米国で20年程暮らしているが、日本より「介護の苦労話」を見聞きすることが少ない気がする。米国社会の高齢化* は着実に進んでいるし、日本のような”皆”介護保険がある訳ではない。貯蓄額も日本より遥かに低いこの国で、介護が必要になった高齢者(特に中・低所得者)は、一体どうしているのだろう。今回はこの点について考えてみた。 まず日本と違う点は、自宅介護の割合が9割* という高率である点だ(日本では施設での介護が8割* )。それも、家族による介護を受けている人々が7割であり、プロのヘ

仰天!アメリカの介護事情 (1)

日本で父が亡くなったことを通し、自分自身の介護への関心が高くなった。それは今年一層強まった。近隣の市に住む義両親が「要介護」になったからだ。 齢100歳の義父と93歳の義母が、これまで子供達や他者のヘルプなしに、自宅で暮らして来れたのは奇跡的なことだ(義母に至っては、昨年まで自動車の運転もしていた!)。義父は、70代で心臓の手術を受けたこと、耳が遠いこと以外は至極健康で、認知症はない。義母も70歳まで会社で仕事をしていた人で、今でこそ理解力の衰えは見えるものの、かなりしっか

8. 帰国後の見舞い& 医師家系の看取り <父を看取れば>

10時間余の空の旅の後、日本の実家にたどり着いた。体は疲れているものの、なかなか寝付けなかった。次の日の見舞いのことを考えてしまったからだ。 私が恐れていたことは、「父の手が握れるだろうか」ということだった。小さい頃からモラハラ気味の父を恐れ、極力避けてきたので、小学校を卒業する頃から父との接触(肩や手に触れることさえ)は一切なかった。高校生の頃、母方の祖父の葬儀の帰りに電車で隣に座ってしまい、腕が触れ合って”ゾッ”としたことを思い出した。大人になってからは挨拶程度はしてい

7. 帰国して見舞う前の準備 <父を看取れば>

私の居住国では、11月の後半に4連休となる祝日がある。仕事は忙しかったが、3泊4日の旅程で帰国して、父を見舞うことにした。 一番の課題は、担当医師に「経鼻胃管」の抜管を頼み込むことだった。父は意思疎通はできていて、経鼻のチューブを死ぬ程(?)嫌がっていた。10月に誤嚥肺炎を起こして緊急処置を受けたのだが、その時(治療のために)一時的に抜かれた管は、肺炎の回復とともにまた挿れられてしまった。 勿論母は、その時この医師の方針 ーこのまま経鼻を継続、肺炎になれば積極治療をするー

6. 悪化する状態と父の変化 <父を看取れば>

N病院に転院して一ヶ月ほどした10月初旬。母から次のようなメールが届いた。「パパは高次機能障害で運動などは思う様に出来ません。 初めの頃に比べれば両手が少し動くし、足は左右動かせますが立って歩く事は不可能です。私やRちゃん(姉)が行くとにっこり笑って嬉しそうです。一応喋れますが、かなり聞きづらい。運動機能はこれ以上に成る事はない。 嚥下(障害)や麻痺・・・この状態が生きている限り続くと思うと辛いです。 少しづつ弱っています。何時まで生きるか分からないけど、お見舞に行って手を握

5. 二番目の病院(希望と絶望の間) <父を看取れば>

N病院への転院は、まだ残暑の厳しい8月の末だった。病院へは無料のシャトルバスがあり、毎日見舞いに通っていた母は「だいぶ楽になった」とホッとした。 倒れてから一ヶ月、父はリハビリを続けてはいたが、その内容はどんど先細りしていた。風船の受け渡しのような簡単なリハビリでも、すぐ疲れてへたり込んでしまう。日中もウトウトとしていることが多くなった。 海外で生活(そして勤務)している私は、すぐ父の見舞いに行くことはできなかった。毎日のようにメールのやりとりしていた母も、「今はまだなん

4. 家に帰りたい!父のリハビリ <父を看取れば>

最期の時を迎えるまでに父は、3つの病院で時を過ごした。 急性期に1ヶ月居たS病院。その次の3ヶ月を過ごしたN病院。そして看取り介護(1ヶ月)を受けたB病院である。 S病院では、危機を脱した翌日からリハビリが始まった。回復の見込みがないことは、ほぼ明らかだったのだが、多分それが脳梗塞患者への”通常のプロトコル”なのであろう。 療法士はとても親切な男性で、毎日1時間、父を支え励ましながら歩行訓練をしてくれた。毎日病院に通った母もリハビリに立会い、よろける父を助けた。父は持ち前

3. 「経管栄養」の決断を迫られた母 <父を看取れば>

脳幹梗塞は、脳幹部の血管が詰まることにより、周辺部の脳細胞が壊死して症状がでる病気だ。この診断を受けた父には、すぐに色々な障害が出てきた。手足(特に右側)と顔が麻痺する。ろれつが回らず、飲み込みができない(嚥下障害)等...。 入院の準備をバタバタとし睡眠もあまり取れなかった母は、すぐに難しい決断を迫られた。 「栄養補給について」だ。「飲み込む力がないので、体にチューブを入れて直接栄養を入れるしかありません。胃ろうか、鼻から管を入れて胃に栄養を送る方法がありますが....」

2. その日は突然に(2) <父を看取れば>

父の病状の詳細を聞くために、私は姉宅(日本在住)にも電話を入れた。父と長年の確執を抱えている姉の反応は...微妙だった。「うーん、なんかフガフガ言ってたよ」。「言語障害が起きてるってことだよね。脳出血だったの?それとも梗塞?」「とにかくフガフガしてて、言ってることわかんなかった(フフ)。」姉の皮肉っぽい薄笑いを聞き、私は頭に血が上った(人が生死の境を彷徨っている時に、その話し方は何!?) 「お義兄さんに替わって!」私の声は怒気を帯びていたと思う(反省)。義兄は理系研究者で、

1. その日は突然に(1) <父を看取れば>

それは2018年8月2日(日本時間)のことだった。母からのメールで、父が緊急入院したことを知った。その日の東京は猛暑で、「足がなんだかフラつくんだけど...」と父は母に異常を訴えたという。「救急車なんて大げさだよ」と渋る父に構わず、母はすぐさま救急車を呼んだ。この判断が父の命を救った(母はこういう時に非常に勘がいい。) 県境の救急病院に搬送された父は、そこで緊急手術を受けた。執刀した脳外科医に「今夜が山」と言われ、母は”万が一”を覚悟したという。 私は海外で暮らしているの