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信達譚 ポスト 

 薄暗い病院の廊下を歩いていつものコンビニにたどり着いた。書類をコピーして、封筒に入れ、切手を買ってから、ポストがどこにあるのかわからないことに気がついた。レジの向こうにいる茶髪の若者に尋ねると、「あいにくこの建物にはポストがないんですよ」とすまなそうな顔で説明してくれた。「いえいえ、今から探しに行ってみようと思います」と応えたのはいいものの、コンビニの外を見やるとまだ夜明け前だった。封筒を片手に持ったまま、どうしたものかと途方に暮れて、夜と朝のあわいを漂うように歩きだした。いつも筋トレをしていた坂道をのぼった上にあるベンチに座り、ひとけのない道を見おろした。まぶたを閉じて耳を澄ましてみる。幼い頃なら布団にくるまったままでも、雪が積もっているのがわかったはずだ。風の音が近づいてくると、にわか雨が通り過ぎる。入道雲の切れ端が引っかかっている山の稜線はそろそろ明るくなりかけている。もうすぐ朝日がのぼろうとしている。母からもらったフィルムのはいっていない古いカメラで山の稜線を眺めては、その向こうに広がっているはずの世界へ行くことばかり考えていた。
 ひらりはらり。
 舞いあがったのは雪か霞か花壇の花か。独楽のようにくるくるまわりながらくっついて、すとん、と落ちた。今は夏だが、昨晩読んだ一句に、「踏みまよふ 雪に足途や 遅桜」(石卯)とあったはずだと思い直して、足を踏ん張って立ちあがった。
 コンビニで説明されたまま、隣接している建物の玄関先のほうへ歩きはじめた。コロナで面会も外出も禁止のはずだが、坂道をくだった先に見えるのは私道ではなさそうだ。坂の途中で立ち止まると、とうに夜が明けた道ばたに、赤い消防車が駐まっていた。
 ひらりはらり。
 吹雪の中を歩き続ける母を追いかける。母が猛吹雪の山道で行き倒れ寸前で救助されたのは、実家の引っ越しを間近にひかえた師走に、母から届いた葉書の小説を書いていた時だった。真夜中に轟音を聴いて何事かと思い、カーテンの隙間から見おろすと、誰もいない交差点で、見たこともない巨大な除雪車が雪をかき分けていた。翌朝になり、母と散歩に出かけると、除雪車が通った道の両脇に、背丈よりも高い雪の壁が続いていた。路線バスが横転したほど深いわだちを、軽自動車が器用に乗り越えながら走っていた。雪の壁が続く道端に、蛍光色の黄色地に赤い文字で「除染作業中」と書かれた派手な幟がいくつも立っていた。白い安全帽のヘルメットを被り、マスクで顔を半分覆った作業員が、数人がかりで側溝の蓋を開け、雪の塊にスコップを突き立てていた。引っ越しを間近に控えた母と手をつないで歩きながら、真夜中に二階の部屋から見おろしていた交差点を、いつかまた眺めてみる日がくるのだろうと思っていた。
 読み返した原稿用紙を畳んで封筒に入れた。赤い消防車の運転手に、母がいつどこで助かったのか訊いてみたいが、どこにも姿が見えないようだ。四角い封筒を抱えて角をまがり隣接している建物の玄関のドアを開けた。コンビニの店員から、「玄関先にあるはずですよ」と聞いていた赤い郵便ポストを捜したが、どこにも見あたらない。とはいえここは確か、入院前のPCR検査で、長い綿棒を鼻の奥まで突っ込まれて、グリ、っとやった場所のはずだ。受付には、制服姿の警備員までいるのだから、間違っているわけがない。確信を持って切り出してみた。
「すみません。ポストはどこですか?」
 制服姿の警備員は自信たっぷりな顔で即答した。
「ここです」
 しばし無言のまま、ここと言われてもどこのことやらわからずにいると、指さして念を押された。
「ここですよ」
 ふと見れば、警備員が常駐している受付カウンターの下に、アルミニウム製の受付窓口と一体化しているとしか見えない四角い箱が設えてあった。高さは窓口から床まで隙間もない。かなり大きな壁のような箱だった。指さされた箱の上部に、長方形の穴が切ってあるのだが、見慣れた赤いポストの投函口よりもかなり大きいようだ。もしこのまま投函した封筒物が迷子にでもなったらどうなるのだろうか。宛名も住所も書いてあるのだが、差出人が入院している場合、回送か転送のためには、どこの住所を書いておけばいいのか。母から届いた葉書を受け取りに行った郵便局の窓口で、「転送の転送はできないんですよ」と言われたのを思い出して途方に暮れていると、警備員が断言してくれた。
「ここの四角いポストですよ!」
「はい」
 封筒を投函してから、問題はそこじゃなかったと後悔しても仕方ながないと思い直し、一歩ひいて受付と一体化した銀色の箱をよく眺めてみた。確かに彫金のような立派で赤い〒マークがついている。きっとこれは公設ではない私設ポストなのだろう。
 ひらりはらり。
 独楽が落ちるどころか横殴りの大吹雪の山道で迷子になった母は、いったいどこのポストからあの葉書を出したのだろうか。はやく病室へ戻って確かめたい一心で消防車が駐まっていた道のほうへ引き返そうとすると呼び止められた。
「どうぞ」
 すぐ近くにあるエレベーターのドアが開いている。まさかひとりでエレベーターに、どうぞ、というのか。怖じ気づいてしまい蛍光灯が照り返す廊下の手前で立ち尽くした。最近はあまり見かけなくなって安心しきっていたリノリウムの廊下が続いている。彼によると、「自然物で結構高い上に衛生的」らしいリノリウムの廊下を足早に過ぎてエレベーターに乗った。行き先も押していないのに、自動的に動いて地下一階に着いた。リノリウムの廊下に足を踏み出すと同時にエレベーターのドアが閉まる。誰もいないリノリウムの床に蛍光灯が照り返している。迷路のような洞穴がのびている。はじめて手術を受けたのは君も知っているように物心ついたばかりの頃だった。遠ざかるばかりの母の影を身じろぎもできずに眺めていた。手術室の眩しいあかりの下で記憶が途切れる一歩手前で隣接する建物に着いた。見慣れた廊下を歩いて病室に戻ると、郵便物が届いていた。
「清野栄一様」
 宛名も住所も間違っていない。無事にこうして入院中の受取人の元に届いたのだから。手紙を書けなくなってしまった母から届いた葉書を裏返してみる。猛吹雪の山道で徘徊したまま迷子になった母は自分の住所を書き忘れている。無事に配達されなければ迷子になっていた葉書を読み返した。

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