言葉の性質

よく言霊といわれます。言葉に何かが備わり、それは発した人の分身、化身のごとき働きをするからです。しかし、言葉は使い方によってはその及ぼす結果に大きな違いが生じます。
まず、その発した言葉が嘘や正直ではない言葉だったらどうでしょうか。言葉の働きとして、そのうその言葉は対象と本人の両方に影響します。本人は葛藤するでしょうし、ウソがばれないように対策をする必要もでてきます。「嘘も方便」を貫き通すにはエネルギーが必要なのです。
しかし、金や体力、権力があるうちはごまかせるかもしれないけれど、いずれなくなるし、無駄と言うより自分を消耗させるだけのことです。
さらに長期にわたり、嘘がばれないように余計な神経まですり減らすことにもなりますね。その作業をしない人は、どうせばれないと対象をなめているからです。しかし、その場合、ばれたときにまとめて反動があるので覚悟が必要です。ばれなくても本人の葛藤が続くので、精神衛生上良くないと言えるでしょう。

何かを問われてノーコメントの場合は、わからないことを嘘でごまかすよりもましかもしれませんが、大臣など立場がある人には好ましくない態度だと思います。

いずれにせよ、言葉が思いを乗せた分身として伝わるのか、逆に自分の内面が分裂する要因になるかは、違いとしては大きすぎますね。ウソは自らを消耗させる。
正直に生きた方が楽とはこのことかもしれません。吐いたら楽になるとも言いますね。

正直な自分の思いは、発した言葉に乗って複数の様々なパターンで自由に広がっていきますが、忖度とか自分をごまかした状態で発しちゃうと、あとで整合性が問われるので、それを証明しなきゃならないという課題を残すことになると言えるかもしれません。
忖度ならまだしも、大きいウソなど、わざわざ疲れることをやる理由は、金とか保身のためでしょうけど、なんて愚かなんだと思わざるを得ません。

「天」という字は二人の人と書きます。
人と人が正直に対峙することは「天」の知見を得るための必要最低条件であり、始まりなのかもしれません。

以上、
真実の言葉の世界でもあるという梵天(ブラフマン)に惹かれるわたしのつぶやきでした。





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