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「生きた会話」と「死んだ会話」に付いて


今回は、私達の日常には欠かせない「会話」というものに付いて考察しています。

私が思う「心の通い合う"本物の会話"」というものは、何の先入観も予測も持たないで、その時に「相手から受け取ったものを純粋に楽しみながら、自分のハートという感性で応える」というものではないかと私は思います。

勿論そうした会話が交わされる場所というものを踏まえ、それぞれの立場を配慮した大人としてのTPOというものがあるので、

他者を不愉快にしない様な「社会人としての最低限のマナーやモラル」は不可欠になる部分はありますが、

でも、そこに頭で考えた「こうあらねば」とか「こうしてはいけない」というものがあまりに入り過ぎてしまうと、その無理矢理抑え込まれた不自然な会話には勢いというものが生まれず、

自覚があろうと無かろうと、「会話をストップせざるを得ない様な空気感」というものを必然的に生み出してしまうのです。

こうした「死んだ会話」を生み出す方達は、そうした方達が無意識に内に持っている「自他共へのジャッジメントから来る緊張感」が相手に伝わってしまうという事に気付けない方達でもあります。

そして、そうした空気感は「会いたいのに、会うと何故か疲れる」「凄く緊張する」というものを生んでしまう事にもなっていて、

「緊張するから会いに行かない」という様な心理にさせられてしまう方達が多くなってしまうというのは必然ではないかと言う事も、私には良く理解出来ます。

これは私が思う事ですが、「外側から作られた会話」というものは、実は中身が空っぽなので、会話が続かないという「死んだ会話」現象を生み出します。

反対に「生きた会話」というものが行われている所には、非常に生き生きとした楽しい波動が流れているので、

「いつまでも話していたい」「いつまででも話せる」「この人達の会話を聞いていたい」という様な気持ちに自然にさせられてしまう空間になります。

自然に「この人(達)に又会いたい!」という気持ちにさせてくれるのは、こうした「生きた会話」が出来る人達が生み出す現象なのです。


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