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周りがみんな行くらしいので、適当に大学行った4

 前回投稿からやはりモチベが出たり消えたりしたせいで長らくお見せできませんでした。
 また適当なこと書いてるので、暇があったら見てみてください。


7 13:23発 苫小牧行き普通列車


 2018年5月。音ゲーマーとの仲は順調に深まっていたある日のこと。話題はバイトの話になった。
 各々バイトを始めたことを聞く。寿司屋だったり塾バイトだったり居酒屋だったり、本当に様々だった。
 高校のころを少し思い出す。バイト可能だった高専に通っていたある音ゲーマーが、「自分で稼いだ金でゲームをしないのはみっともない。」と吐き捨てたことがあった。バイト禁止だった高校に通っていた僕にとってどうしようもないことだったためあまり響かなかったが、大学生になってしまうと事情は違った。
 「俺、人に何か教えるの好きだし塾バイトしようかな。」
 そのあとは早かった。東室蘭駅近辺に塾は集中していることは知っていたので片っ端から電話をかける。ある一つの塾から声がかかりスーツに着替え、履歴書をもって向かった。
 受付を通され面接へと入る。担当できる科目は数学のみだとういうことを伝え、軽く中学レベルのテストをしたのち、「合格なんだけれども、いま先生の数は足りているから待ちになってしまうんだよね。それでもいいかい?」と塾長から聞かれる。まさかの逆質問に戸惑ったが、後々生徒を持つことを考えて勉強の時間だということで承諾したのだった。
 バイトを始めて一か月が経った。一人の生徒を担当に持つことができ、順調に”先生"として働き始めたある日のことだった。教室へといつも通りに向かうと、見知らぬスーツの男性が塾長と話していた。「あ、○○くん。少し話があるんだけどいいかな?」と塾長は言う。少しだけ時間はあった僕は承諾してスーツの男性と塾長の三人で話し始めた。
 「いきなりなんだけどさ、担当一人だと暇だし稼げなくないかい?」
 塾バイトの給料は時給制ではあるのだが、担当している生徒の数だけシフトに入ることができるためその数が一人の僕はたしかに周りに比べてあまり稼げてはいなかった。
 「まぁ、そうですね。確かに趣味に使えるお金を確保することも厳しくなってますね。」
 僕のその言葉に対し、塾長は地獄のような発言をしたのだった。
 「そこでだ○○くん。苫小牧校で働かないかい?今とても人数が少なくて困っているんだよ。もしよかったらお願いしたい。担当する生徒さんの数は室蘭とは比にならないはずだよ。」
 そう、このスーツの男性は苫小牧からの刺客だったのだ。
 この発言を受けた当時の僕とともに一旦状況を整理する。室蘭から苫小牧はどれくらい離れているのかというと、約65km。車を持っていない僕は列車で移動するしかなく、所要時間は90分ほど。

北海道内の各都市間の距離と時間(*1)


 そしてその区間の列車間隔は普通列車だと一時間半から二時間程度だ。さらに大学の講義終わりに向かうとなると苫小牧につくのはざっと17時だ。普通に考えるとバイトする距離でないことは明らかにわかる。しかし当時の僕はすべての物事に対して、おもしろいか否かだけを考えていたため、15秒考えたのちにYesと返事をしていた。
 次の日、13:23、東室蘭駅。二両編成の気動車に乗り込む。周りには10人程度の乗客。僕のイヤホンから流れる音楽は花澤香菜。初めて向かう土地にワクワクしていた。
 約90分で列車は苫小牧駅に到着する。五分ほど歩いて向かう先は今日からお世話になるバイト先であった。
 その校舎では本当に人がいないらしく、ろくに先生の経験もない僕ですら即戦力となった。社員の人から60分ほどの研修が行われ、なんとそのあといきなり僕は中学生を教えることとなったのだ。いきなりすぎてかなり困惑したがやりがいがありすぎたため一瞬で時が過ぎたのを鮮明に覚えている。個人的にはその授業は大変お粗末なものだった感覚があり、生徒が問題を解いている間に表には出さないように猛省することを繰り返していた。
 19時。その時間には帰りの列車に乗らないと次の日に響くということで必ず帰るよう塾長に宣言し僕は列車に乗り込んだ。室蘭へ戻るのもまた二両編成の気動車。乗客はそこそこいた記憶がある。
 21時手前。90分ほどの列車旅を楽しんだのちに東室蘭に到着する。自転車でゲームセンターに向かうといつもの仲間たちがいた。この日から「スーツ姿で21時過ぎにゲームセンターへ訪れるろうにんくん」は当たり前の風景へと変わっていったのだった。
 7月後半。事態は急展開を迎える。東室蘭駅前の校舎でも担当する生徒数は増えてきていたのだが、一気に苫小牧校での担当人数が倍増したのだった。
 昼で大学の講義が終わる日は、12時台の特急に飛び込み苫小牧へと向かう。その後休憩など存在しないなか頭を6時間必死に使い続け生徒に数学を教える。時には専門外の化学や英語を教えることもあった。怒涛のシフトを終えたので19時の列車に乗り込もうと逃げるように校舎を出てエスカレーターを下る。すると後ろから忍び寄る影があった。教室長だ。
 

「○○くん。あと一時間いけないかい?」


 そう。残業の指示だ。人がいないことは知っているので特に断りにくい。
 前述の通り室蘭までの列車間隔は2時間ほどであり、19時台を逃すと次は21時台になるのだ。さらにこの人の言うことはアテにならないと学んでいたため、1時間残業するということは閉校までいるということだとどこかで覚悟しなければいけないのだと心に訴えかける。しかし人はいない。どうしようか。僕の答えは、「大丈夫ですよ」だった。満面の笑みで答えてやった。半ばやけくそだ。
 ぼくはあたまがとてもよいので、その日は結局22時まで残ることとなった。クタクタになりながら終電に飛び乗ると、東室蘭につく頃には23時も後半に差し掛かっていた。絶望しながら自転車に乗りゲームセンターへ向かう。何も見えない中1クレをビートマニアにぶち込み感謝のAstral Voyage(10thStyle)を体に流し込む。そして帰宅。明日も大学があるのですぐに寝た。
 「おもしろい」ことだけを自分なりに求めていたはずなのに気づいたころには全くおもしろくないことになっていくことにこの頃気づいたのだった。
 その状況は改善せずに夏休みに突入した8月後半。9月の初めに特別講義があるため千歳に五泊することを伝えると、「いっぱい(シフト)入れておいたから頼むよ」という意味不明な発言が飛んできた。ふたを開けると31日まで怒涛の六連勤。バカすぎ。しかも毎日終電で帰る生活。もはや精神は限界を迎えていた。
 この頃のホットな悩みは、「夏休み明けに塾バイトをやめようか、ほかのバイトは怖いので続けようか。」だった。

8 特別講義 in 千歳 with 小樽商科大学


 地獄が終わり、予備校が一緒だったOくんとともに特別講義を受けに千歳に向かった。ホテルもOくんと相部屋であり、純粋に楽しみであった。
 余談だが、当時の室蘭音ゲーマーの中で流行りワードとして「虎杖浜(こじょうはま)」と「胆振(いぶり)」があった。架空のラウンドワンである「虎杖浜ラウンドワン」はミライダガッキが30台ある60時間営業のゲーセンで、略称はこじょラ。という風に適当に設定を作ったり、室蘭市が含まれる地域名である「胆振」を、室蘭を卑下する代名詞として使ったりしていた。運転マナーの悪い老人が運転する車が急に歩道に出てくると「あいつイブリティー(胆振+クオリティー)たけぇな。」などと言った。周りに言葉遊びがうまい人たちが奇しくも集まったのだった。
 なぜこんな話をしたのかというと、Oくんは千歳へ向かう道中で初めて「虎杖浜」を通ったのだった。「まもなく虎杖浜です。」ワンマン列車のアナウンスで僕たちのテンションは最高潮になり、そのまま千歳にたどり着いたのだった。
 千歳の市民ホールに集められた学生たちは、その後行動する班を確認したのち小樽商科大学の教授による経済についての講義を受けた。そもそも特別講義自体のテーマが簡単に言うと「千歳という街は空港以外で観光することないよね?どうすれば人来る?」を考えるものだったので、経済学は必然的に勉強しなければならなかったのだ。
 高校時代に一瞬「文系のほうが女が多い」という理由だけで数学の使える経済学部に行こうとチラついた経験のある僕にとって、本物の講義を受けることはとても楽しみだった。
 まぁ実際の感想としては、「まだ積分したほうがマシ」だったのだが。ただ苦痛だった。何も面白くなかった。理系のまま大学生になった自分自身を心底尊敬した瞬間だった。
 次の日は講義を受け、その後千歳にあるビール工場に行ったのち、班ごとに分かれて話し合うことになった。無茶苦茶余談だが、その班分けで一緒になった女の子の一人が高校の時にずっと好きだった子に似ていたためそわそわしていた。そんなことを同期ボルテerのMくんとKくんに言うと「あいつ俺らと高校同じだわ」と話してきたのでとてもテンションが上がりました。はい。
 後の日々はパン屋行ったり、なんやかんやしたり、前述のボルテer二人が千歳のパチ屋にたまたま来店していたムーディ勝山に会いに行ったりしてあっという間に最終日になった。
 9月4日。僕とOくんはホテルを一日早くチェックアウトし、金を節約するためネットカフェに泊まることにした。その日は台風が本州から来ており、夜に北海道に上陸したのだった。北海道に台風が来るというのは実はとんでもないことで、殆どは東北のあたりで熱帯低気圧に変わるため、北海道まで来る時点で相当な大型なのだ。実際本州では被害が頻発していた記憶がある。
 Oくんも僕も東京育ちなため、台風には慣れている。小学生のように外に出て風を感じよう風を感じるんだ状態に突入。付近の民家の屋根がはがれていくのを見て戦慄しながらHot Limitごっこをしてとにかく盛り上がったのだった。
 9月5日朝。それまでの四日間と同じようにホールに向かうと、担当教授が玄関前に立っていた。「台風の影響でJRが止まってるから講義ができない。後日一日用意してそこで最終発表をしてもらう。」とのこと。
 僕はその知らせを聞いて心底困った。その日は授業後に深夜の船に乗り実家まで18きっぷで帰省する予定があったからだ。それを教授に伝えると苫小牧のイオンモールまで車で送ってくれた。感謝しかない。
 その船は出発が19時とかそこらであったため、一生ゲームセンターで時間をつぶすこととなった。今はどうか知らないが当時のディノスパーク苫小牧店は灼熱pt.2を選曲するとフリーズする画期的なバグが存在し、店員さんにはお世話になった。
 遊びすぎたので急いで苫小牧港フェリーターミナルへ向かう。5日後には人生の目標であった花澤香菜のライブがある。久々の実家でもある。楽しみで仕方ない僕は売店で晩飯とじゃがりこを購入した。

*1 https://www.kuraso-hokkaido.com/hokkaido_detail/distance.html より引用

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