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エゴのない意欲とは

エゴのない意欲とはどのような意欲であろうか。エゴとは広辞苑では次のように説明されている。

エゴ【ego ラテン】
(「私」の意)
①自我。我。
②エゴイスティック・エゴイズムの略。

自我、エゴイスティックとあるが、これらはなにか?同じく広辞苑で調べると次のようにある。

じ‐が【自我】
(self イギリス・ego ラテン)
①〔哲〕認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。↔他我↔非我。
②〔心〕
㋐意識や行動の主体を指す概念。客体的自我とそれを監視・統制する主体的自我とがある。
㋑精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーの側面。エゴ。→超自我
エゴイスティック【egoistic】
利己的。利己主義的。自分本位。

調べでもなんだかピンとこない。筆者ならこの説明だけではよくわからない。それでは、エゴのない意欲はどういったものか?具体例を上げて紹介していく。

子供が砂場を見つけた。駆け寄り、砂で遊ぶ。サラサラとした感覚を楽しむ。砂を掘ると少し色の濃い湿気た砂となる。それを手のひらで転がしてみると、塊になる。砂を集めてみる。塊になる。気づくと塊がたくさんできている。お団子がたくさんできている。大人が子供にどうしてお団子を作っているの?と話かける。別に”お団子”をつくっていたつもりはないのだが、気づいたらそうなっていた。子供は”つくりたいから”とこたえる。それは結果的につくられていた。こたえようがない。やってたらそうなったとしか言えない。最初からお団子を作ろうとしたわけではない。

AAAは中学の頃に吹奏楽部に入っていた。トランペットを吹いていた。中学校時代は部活動に打ち込んだものだ。大会のために様々な曲を吹けるようにし、いつの間にか読めなかった楽譜も読めるようになっていた。しかし、社会に出て働いているうちにあんなに取り組んだトランペットを触ることもなくなった。しかし、部屋の片付けをしていると、タンスの奥からトランペットが出てきた。懐かしい。久々にちょっと吹いてみる。案外音が出るものだ。楽しい。あの時の感覚が蘇る。楽譜も入っていたので、それに沿って吹いてみようとするが、うまく吹けない。なんだかつまらない。楽譜に沿うことを諦め、好き勝手吹いてみることにした。最初は何かの曲のアレンジをしていたが、そのうち自分で好き勝手吹いている。音のつながりが楽しい。こんな音の出し方もあったのかと気づく。それを主として音を奏でる。なんだか曲になっている。そのうちオリジナルの曲として情報を発信するようになった。それはなっていないと批判する人もいたが、コアなファンもついた。なぜか好きなトランペットで生活できるようになっていた。結果的に演奏家になっていた。別になろうとしたわけではない。目の前のことを楽しんでいたら、そうなっていた。

これらは、エゴのない意欲に従った結果である。エゴのない意欲とは、あぁしてやろう、こうしてやろうと思わない。何か世の中にあるものに則してやろうとしない。自分にできることをする。試行錯誤する。自分が心地よいと思うことをする。意識をなにか目標に向けているわけではない。目標を立てていない。これが得意だからと考えて行動しているわけではない。囚われていない。これがエゴがない意欲である。

エゴのない意欲に従うと、何者にでもなれる。より満たされる。





”より満たされる”ことに繋がる。

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