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意味のないことは、どのくらい意味があるのか

私は意味のないことにこそ、意味があると思っている。

私の仕事は研究開発だ。世の中にない新しいものを発明し、形作って手元に届ける。便利なモノを作っている。それは時代の最先端だ。様々な機能が搭載されており、簡単に作れるものではない。私の取り組みは価値があると捉える人もいる。貴重であると捉える人もいる。私自身やりがいを感じる。意味があることだと言うことができる。

意味のあることを取り組んできた中で、思うことがある。意味のないことにこそ、意味はある。意味のないことは、私の種になってきた。それではその”意味のないこと”とはなんであろう。

私はサラリーマン生活の中でいわゆる無職だったことがある。半年程度、無職だった。そして、その際に大学受験をしている。芸術に関する大学だ。しかし、受験時に私は次の勤め先を決めていた。働き始めようとしている時に、大学受験して合格し、見送った過去がある。なお、その入試の合格率は低い。狭き門に入れたが、入学しなかった。

私は無職当時、これから先のことを決めていなかった。宙ぶらりんの状態であった。その時に、好きだった絵を描いていた。それを生活の中心として貯金を切り崩して生活していた。そんなとき、同級生の友達が医学部受験するため、高校にセンター試験の申し込み?か卒業証明書?を取りに行った。随分前のことなので、なんのために高校に行ったのかは忘れてしまったが、センター試験を受験するために必要なモノを手に入れた。その日、一緒に遊んでいた私もその時に一緒に手に入れて大学受験することにした。そういった、流れの中で受験をした。

その当時、私は先のことは決めていなかったが、貯金がみるみる減っていった。そろそろ貯金が0になるということで、転職活動をして次の勤め先を決めた。そんな中で受験日があり、合格発表時にはもう新しい会社で働いていた。

この一連のことは”意味のないこと”をしたとも捉えられる。なぜ、そんな行動をしたのか。本当に行きたくてたまらない人がいるのに、失礼ではないのか。真剣な人に対して失礼ではないのか。私が高校生の受験生なら、このような人がいたら怒る。なんだこいつと思う。なお、私は受験に対して真剣に受けた。他の受験生と何も変わらない。しかし、状況はユニークだった。自分の人生に対して、計画しなかった結果、支離滅裂な状態となった。

私が先々のことを考えられないわけではない。研究開発、ものづくりは先々のことを計画することから始まる。いつ頃市場に出すかを決め、要件を決めて逆算して仕様をおこし、部品を買い、ものを作って、不具合がないか確かめる。ものづくりは適当では動かないので、全体を見通し細かいところまで作り込む。そこでは、やってみたらできた。なんてことはない。理屈がある。根拠がある。適当ではできない。

なぜ、そのような意味のないことをしたのかと言えば、自分にとって必要だからと感じたためだ。それまでの私は、人生をレールの上に沿って生きてきた。随所の進路選択は確かに自分で行なってきたのだが、どこか不安だった。自分に自信がなかった。人生に悩み、これから先のことに悩んでいた。だからこそ、挑戦した。私にとってはそれは人生の門出だった。

なお、受験に合格して入学を見送る人はいる。他の大学に合格したからという形が多いが、私は大学に行かずに再就職という形を取っただけである。外から見れば、補欠合格した人がいる、という事実に変わりない。

思い返すと、私にとってこの"意味のないこと"は意味があった。自分とは何かを散々考え、芸術における表現に悩んだ。芸術という、私がこれまでやってきたこととは畑違いなことを真剣に取り組むことで、私は私に向き合った。

今私は休職している。私の家族は、無職当時、私が絵に打ち込んでいたことを知っている。その状態を気が狂っていたと話す。ちゃんとまた就職してくれてよかったと話す。私の今の状態を家族に話していないが、復帰するように言うのではないかと思う。人から見れば意味のないことは、私にとっては意味があった。そうして、私は今、記事をあれこれ書くことに夢中になり、これから先のことを当時と同様計画せずに生活している。今を楽しんでいる。

意味のないことは意味がある。遠回りほど後から振り返ると近道になっている。私をより豊かにした。



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