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フィルタをかけて捉える人

人からのフィルタをかけて捉える人がいる。あの人の服オシャレだねと隣の人が言ったとする。その言葉に対して、私はオシャレではないのかな、よくないのかな、私はどうして褒めてくれないの?と思う。ねぇ、私は?と言う。隣の人は紅葉を見て、キレイだねと同じような感覚で言っている。ただの感想である。オシャレだと思ったからオシャレと言っている。別に比較などしていない。しかし、フィルタをかけて捉える人は、その言葉を、あの人の、服は、オシャレである、と、隣の人は、思っている、と認識しない。自分のことを上げたり下げたりする。過敏な状態となっている。自分と比較する。

フィルタをかけて捉えるのは、フィルタをかけてしまうのは、あなたはそのままでいいとされなかったためである。安心できなかったためである。いつだって何かを強要された。何かと不機嫌になるため、機嫌を取らないといけなかった。あなたのためだからと、こうした方がいい、ああした方がいいと言ってくることをしないと、苦労するよと言われた。しないと、感覚がズレている、常識的ではない、あれこれ言ってくる。他にも、存在を無視される。こちらは気づいて欲しい、ちょっとした心のモヤモヤ、不安を大丈夫だよ、大したことないよと言って欲しいだけなのに、それを無視される。冷酷に扱われると、甘えられない。傷つく。自分に気づいてもらおうと、相手の顔色を伺うようになる。無視されないように、人の様子を伺う。周囲に合わせるようになる。合わせるようになると、過敏になる。常に自分のことを気にする。心は不安である。

フィルタをかけて捉えるのは、認めてほしいということである。そのままでいいよということを、人に言ってもらいたい。安心したい。それまでは、怯え、不安になり、溜め込んできた。悲しみを、怒りを覚えてきた。ただ、そのままでいいと振る舞って欲しいだけなのに、それが叶わなかった。自分を信じて欲しいのに、それは叶わなかった。それは避け難い状態だった。避け難い状態をなんとか耐え忍んで、やりくりして、ここまでやってきた。

フィルタをかけて捉えるようになる状態は、そうならざるを得なかった状態だと思う。何せ、そのままでいいよとされなかったからである。何か要求される。搾取される。こたえることで、活力をなくしてきた。

フィルタをかけて捉える人がいたら、相手の言葉を受け止めることである。それがどんなに極端なことであっても、受け入れることである。それでいいとするのである。すると、どんどん安心していく。何かと過剰だった振る舞いも、丸みを帯びていく。人との摩擦がなくなる。自分をアピールしなくても、大丈夫と思え、フィルタをかけて捉える人は、自分の意欲に従って、やりたいことを始める。その意欲は、誰かに認識して欲しいという想いからの意欲ではない。誰かにこたえようとして取り組むことではない。安心して、なんだか気になることをやってみる。そうしていくうちに、いつの間にか言葉にフィルタをかけなくなっている。勝手な解釈をしなくなる。事実を事実として認識するようになる。

自分がフィルタをかけて捉える傾向があるならば、ゆっくり休むといい。頭と身体を空っぽにするといい。これまでの私は大変だった、と回想する必要もない。将来に対して、こうなるとワクワクするかもしれないと目標を持つこともしなくていい。ゆっくり休むことで、意欲がわく。やる気が出る。そのやる気は自分は大丈夫と思えているから出ている。理由などいらない。自分はいつだって大丈夫なのだから。目の前のことに対して、集中するといい。そして疲れたらゆっくり休むといい。そうしているうちに、気付きが重なる。気付きが重なると、いつしかユニークなものを生み出している。ユニークなものは、その人らしいということである。特に奇抜である必要もない。無理せずに、ご機嫌に生み出していた結果、その人がつくったものだなとわかるものをつくている。それは、人を惹きつける。つくっていると言ったが、目に見えない形でもいい。人をサポートする、歌う、踊る、どんな形でもいい。その取り組みは、いつしかより満たされた世界につなげている。当初は予想していなかったかもしれないが、その言葉にフィルタをかけているところから、確かに連続してそこまでたどり着く。しかし、はじめは想い描いていなかったところに到着する。その世界は、満たされ、自由である。

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