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私はなんのために会社を辞めるのか

 2021年の9月末か10月末には今の会社を辞めようとしています。なんとなく気分で辞めようとしているのですが、なんのために会社を私は辞めるのか考えてみようと思います。

 おそらく自分への挑戦のためなんですよね。自分への挑戦はもちろん会社でもできると思います。たとえば私がまだできない苦手なことして、主従関係のある人間関係や忖度のある環境です。相手が自分を誘導しようとしてきたり、強要しようとするケースが苦手です。これは会社なら起こり得ることなんですよね。組織が向かうべき方向があって、私がそこからズレていたら軌道修正するという形です。

 ただし私はずっと思ってきました。思いどおりにできたらどうなるのだろうと。会社では私の意見をがむしゃらに押し通したいわけでもありませんでした。私のことを理解して欲しいという気持ちはなくはありませんでしたが、そんなに求めていませんでした。私が求めたことは、私自身がやってみたいやり方でやったらどうなるんだろうということです。

 たとえば私はこのnoteを今年の4月からはじめて今日まで続けてきました。ほぼ毎日投稿しているので、たくさんの記事があります。これは私がやってみたかったものの一つです。私はnoteでフォロワを増やそうといいねを押しまくったり、フォロワを増やしたりということをしていません。内心ではフォロワが増えて多くの人が私の記事を読んで満たされるきっかけになったらいいなと思うことはありますが、あまり執着せずやってきています。私は会社を辞めるとnoteだけが主なメインの活動となるので、このままでいいのだろうかと思う一抹の不安を抱くこともあります。

 それでも私が人生でこんなにも落ち着いて、人からの見返りを考えず、継続できていることは「書くこと」なのです。私はゲームも好きなのですが、ゲームはいつか飽きがきます。ゲームをクリアしてある程度やりこむと飽きてしまいます。しかし「書くこと」は飽きません。なぜか毎日気づきがあり続けられます。「書くこと」は会社づとめしながらも続けられるのかもしれませんが、「自然とやっていること」を更に続けたらどうなるのかというのを試してみているところなのです。 

 私の「より満たされるために」の考えからいくと、今の私は安心している人のステージにいます。私は出版した本にも書いていますが人の状態は2つに分かれると思っています。「不安な人」と「安心している人」です。不安な人には囚われがあります。執着があります。そのため何かの考えに固執して状況が変わらなかったり、更に悪くなっていく傾向があります。不安な人が行き着く先は無気力です。対して安心している人は目の前の興味に従って行動します。その意志にはエゴがありません。何か理想を掲げたり、目標を掲げて、執着することがありません。そうしてなぜか「安心している人」と同じような囚われがない人に囲まれ、自然と有名になったり、お金を得るというものです。安心している人の行き着く先は新しいジャンルの確立です。ただし安心している人は新ジャンルを確立してもそこにとどまり続けることをしません。何か成し遂げても再び興味のままに新しいことに取り組んで、他のジャンルでも新しいことを確立させていきます。つまり何者にでもなれるのです。

 少し長くなりましたが、私は自分自身で私の理念の正しさを検証しようとしているのです。なぜ理念が先にあるのかと言えば、私はずっと「成功するためにはどうしたらいいのか」を考え続けてきた人だからです。ここで言う成功とは「より満たされるためにはどうしたらいいのか」ということです。子どもの頃がたいして考えていませんでしたが、自立して自分で物事を選択するようになった時に「どちらの道にいけば私は満たされるのだろう」ということを考えてきました。昔は泥臭くコツコツ取り組むことが報われることにつながると信じていました。そうして中学、高校では成績が全ての教科で満点でしたし、大学では首席で卒業しました。大学を出てから研究者として働くようになっても成果を出しつづけました。置かれた環境で最も成長できそうな方、結果がでそうな方を選択して生きてきました。勉強だけではありません。部活動やプライベートの活動でも追求してきました。描いた絵は文化祭のポスターに選ばれ、大会に出ては優勝してきました。私なりに目の前の課題をクリアしようと試行錯誤したのです。

 しかし私は人生に行きづまりました。どんなにお金を得ても、周りから認められても、私自身が能力をつけようと満たされないのです。反対になぜか大変忙しくなったり、どんどん余裕のない生活となっていきました。私は人生にたいして疲れはじめていました。

 そこで私は満たされていそうな人を観察しました。そこには「子どものような人」がいました。つまり「安心している人」です。また仕事をする中でも子どものような人の特徴を見出しました。それは子どものような人は理系の研究職という小難しい論理的な世界であっても、子どものような閃きで新しいものを見出していました。これは絵画やスポーツの世界でも同様でした。極めた人は皆、「子どものようである」という特徴を持っていたのです。

 このような経験がきっかけで、私は「不安な人」が「安心している人」となる方法を生みだすに至りました。私は理念として、つまり多くの経験という情報のサンプルからある定理を見出しました。それを自分に試してみているというところなのです。

 私は理系の世界で育ったので「エネルギーを感じて」や「一体となった感覚になる」といった表現が苦手です。もっと誰でもわかるような指標がほしいと思ってきました。また精神科やカウンセラ、コンサルタント、占い師などの元に行っても、ある分野の方向にしたアプローチしかされません。また何かが好転しても何かは犠牲にしているということがありました。たとえばココロやカラダは良くなっているけれど、出費はかさんでいるというようにです。他にも何か新たにできるようになることを求められました。経営の方法、自分の軸の立て方、自分が何を求めているのかなど様々です。私は人生をなんとかしたいのに、状況が変わらず苛立ちを覚えていました。そこで私は誰でも今の状態からできる「不安な人」から「安心している人」になる方法を確立しました。これを自分で試してみているのです。

 なんのために会社を辞めるのか、それは「誰でも不安な人から安心している人になるメソットを普及させるため」なのかもしれません。普及させるに至り、自分が有名になろう、メソットを知ってもらおうという方向に躍起になるのではなく、地固めをしています。これは後にも先にも変わらないでしょう。良いものを生み出せば自然と結果がついてくることを知っています。こうして私自身が不安な人から安心している人となって、人生を成功の方向へと舵を取ること、これこそが私が恵まれた職場を辞めてまで取り組もうとしていることなのです。

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