見出し画像

認めたくないこと

私の認めたくないことについて書いていこうと思う。

自分は実力がないという事(心のゆとりがないという事)

私は高校に進学するにも、大学院に進学するにも期待通りにならず、大学は指定校推薦で入学した。かつての私は指定校推薦で入学することを恥じていた。周囲は受験して目の前の自分と日々闘っている姿を横目に、自分は楽をしているのではないかと罪悪感があった。一方で、自分の希望通りの指定校推薦を私は取ることができた。進学校では大抵の場合指定校推薦は推奨されない。なぜなら、大学の進学率ーどこの大学に進んだかという母数が減るためだ。私の通っていた高校ではそこまで圧力はなかったが、実力のある人には複数の大学や学科を受験させる事を推奨する。それは、受験生には空気に慣れた方がいいなどと言って、立て続けに受験させる。そうして、複数の大学合格をその学校の成果として公表する。

私が指定校推薦を選択したのは、受験であっても指定校推薦であっても合格して大学に通うという事実は変わらないからだ。しかし、指定校推薦を取るに当たり、先生は少し難色を示した。しかし、制度として成り立っているので、選択する事を許可した。これを許可しない学校もある。私の個人的な所感だと地方の進学校にその傾向がある。これはサラリーマンとなって有給取得を許可しない風土の組織と似ていると思う。そこにはエゴや癒着が詰まっている。高校と大学院は期待通りにならず、落ち込んだ。それは後に語るが自分には実力がないと思えた。私はこの結果から社会から弾き出されたような感覚になった。置かれた組織で推奨されない選択を取り、私は私の考えるままに選択をしたが、それを否とされた。孤独を感じた。疎外感を感じた。私の期待は周囲が私をありのままに受け入れることだった。

このような罪悪感を払拭する出来事が人生で2つ起こった。それは、私が実力があってなんて素敵な、本物の研究者なんだと思っている人が、私と同じ指定校推薦で大学に進学したという事実だった。細かい話になるが、理系の研究にも色々ある。研究の中でも基礎物理や基礎数学や電子や量子などを追求する宇宙関連はただ秀才であるという事だけでは生きていけない。論理的思考能力や再現性のある地道な努力で成り立つのは、シミュレーションで統計を取ったりする上っ面な世界だけだ。既存の技術を組み合わせて新しい研究分野を作る世界だけだ。これら2つは一般人でも辿り着ける。本当に世界で戦う物理や数学や宇宙関連ーまだ見ぬブラックボックスの中で当たりをつけて、実験で1発でそれを検証したり、論理の飛躍の先にある新たな事象を発見するには、努力では決して身につけることのできない、地頭とも言える、閃きのある発想ができる人、勘が鋭いといった抽象的な表現とはなるが、そこには本能でしか辿り着けない研究分野がある。この頭はもって5年だ。大学院に入学してからおよそ28〜30歳までに、これまで認知されていた事象から一歩先にいける道を見出せた人が結果を出せる。

わかりやすい具体的な話をすると、世の中のあらゆるものは原子と呼ばれるモノで構成されている。その中心には原子核と呼ばれるものがあるのだが、それらにはある磁力や温度にすると、特有の電波を放射する。この技術は、例えば色々混ぜた液体の中でどのような化学反応が起こっているのか、どのような状態となっているのか知るときに利用される。腐り具合と言ったところだろうか。色々と混ぜた液体を、ある磁力や温度にすると電波が放射される。その電波を原子核がある条件下で出す電波を対比させて、色々と混ぜた液体にどんな原子があるのか、どんな化学反応が起こっているのか知るのだ。ここで言う”勘が鋭い人しか辿り着けない世界”は、初めに”原子核がある条件下で出す電波”の”ある条件下”を見つけた人だ。原子の中には63度にしてから97度に変えて、再び63度に戻す状態である磁力を加えると、電波を出すといった条件のものがある。(※63度や97度はうる覚えの値。)人類はこれを総当たりで見つけていったーつまり0度から順番に条件を変えて原子核が特定の電波を出す事を発見したのであるかと言えば、そうではない。ひとりの勘が鋭い人が、ドライブ中に閃いて見つけたのだ。この絶妙な温度で電波を出すことは、論理的に頭を悩ませても閃かない。多くの化学の事象や実験など大量の情報に触れたからこそ閃いた”野生の勘”としか言えないような世界である。論理的に物事を説明する事が大得意な理系の一流の研究者が皆口を揃えて同じことを言うので、これは信じがたくても事実である。

同じようなことは、理系の研究の世界ではなくとも言える。私が知っている例で言えば、ある新進気鋭な陶芸家がいる。その人が得意なことは、カラフルで鮮やかで美しい器をつくることだ。陶芸で土をこねて、釜に入れて色鮮やかにするのは難しい。大抵は鮮やかな青一色になったり、下手な人がやるとその色味すら出す事ができない。その人陶芸家は美大に進んだわけでもない。元々確かバンドをやっていて”俺、陶芸やりたい”という形でその道に入った。周囲にそのような伝統陶芸に打ち込んでいた人がいるわけでもない。その陶芸家は陶芸家の元にいき、俺にも器を作らせて欲しいと言って基礎を学び、そこから自分で釜を作った。そうして、仕入れてきた土を触って、この土はいい。といった形で形作った器を窯に放り込む。すると鮮やかな器ができる。不思議なのは同じようなプロの陶芸家であるのに、他の人がその土をこねて窯に入れても、同じ色味がでない事だ。素人目から見ても色が出ていない。ただの土の色だ。ただ、その新進気鋭な陶芸家は、器の絶妙な厚さと温度を感覚で分かり、器を作っていた。これも先ほどと同じ”野生の勘”いわゆる天才という人である。このような”野生の勘”を有したままの大人は必ずと言っていいほど、満たされた人である。現実から逃げずに、勇気を持って立ち止まって考え、心のゆとりがある人である。

話はだいぶ逸れたが、私が本物の研究者と思う人、つまり勘が鋭い人、天才が指定校推薦で大学に進学していた事がきっかけに、それまで抱いていた罪悪感が薄れた。大抵の場合、本物の研究者は受験している。推薦で大学進学していない。ただ、その人は基礎物理の世界で最先端に立っていた。第一人者だった。そのような研究者が私に”俺は指定校で大学に入学したけど、俺は高校の頃たくさん勉強をした。その後も人一倍勉強してここにいる。自分を誇りに思っている”と話たのだ。どうしてこんな話になったのかはわからないが、私からその話はしていないことは確かだ。なぜなら、私は私が指定校で入学したことを恥じていた、罪悪感を感じていたから。そこに当時一番尊敬していた人がそのような事を話したので、指定校は別に実力がないことではないんだ、そう思えた。私のこれまでやってきた事を自分で認めれば、自分に自信を持てれば、罪悪感を感じなかったのかもしれないが、私は周囲の頑張っている様子を折り合いに出したりして、なかなか認められずにいた。そんな中での尊敬する本物の研究者が指定校でも良いと捉えている姿が捉え方が変わるきっかけとなった

2つ目の罪悪感を払拭するに至ったきっかけは、旦那の一言だ。うちの旦那に私は実力がないと自分では感じているー高校、大学院が期待通りにならず、大学は指定校であることを恥じている、と言う話をした。旦那は”あなたの実力はそばで見ているからわかるよ。それに罪悪感、劣等感、恥じる感覚は周囲の態度がそう思わせただけだよ。あなたはとても実力がある。”と言った。私はそれでも何かと上手く行かない時は自分の実力のせいではないかと思い、旦那に相談した。そのたびにあなたは冷静であるし、物事を一歩引いて捉えられているし、周囲の気持ちにもこうして気付けている。実力がないわけではないし、ただ周りが混乱していただけだ、と話た。そのようなやりとりを重ねる中で、自分への認識を改めて言った。実力がないという姿を隠すための虚栄をはる事をなくしていった

今では実力がない事ー心のゆとりがない自分を認めたくない自分がいる事を認めている。一歩引いて見れば、私は実力がない状態ではない。心のゆとりがある時もある。しかし、私自身が実力がないと強く意識してしまう。心のゆとりがなくなる。そのために、不安にかられたり、焦る事がある。おそらく周囲の様子を伺う自意識過剰な私が自分をこのような形にした。そんなにも人の様子を伺わなくてもいい、いつも結果が出るわけでもないのに、成果を出さなければいけないという強迫観念のような形に迫られた。私は実力がないことを認めたくない。自分の弱いところを曝け出すのが苦手だ。抵抗がある。心のゆとりがないから、今の職場で休職する時、上司を驚かせるような形で休みに入った。もう少し冷静に、段階を踏んで周囲とコミュニケーションを取りながら事を運びたかった。しかし、それができなかった。これまではその事実を認める事が辛かった。心のゆとりがないという自分を認めることから逃げていた。周囲を困らせた自分を責めた。周囲ともっと上手くやりたかった。だけれども、心のゆとりがなく、休み休み過ごすという事すら選択できなかった。その結果、急ブレーキをかけた。私は会社で自分なりに大きな成果を残せたと思った節目に休職に入った。その大きな成果は私にとっては実力があることの証明だった。これまでの様々な気持ちをそこに成仏させる形をとった。しかし、もっと早くから見切りをつけることはできた。理系の研究職をという憧れや好奇心、条件、安全第一で入った世界から私自身でひとつの事を成し遂げる事をやろうとしている。今は心に乾きはない。

自分は立派ではない、特別ではないという事(勇気がないという事)

私は主従関係のある人に自分のことを正直に話す時、とても緊張する。一瞬で汗をかき、泣きそうになる。喉に石ころが詰まった形になる。体が火照る。手足が震える。体も震える。心臓がドクドクと鳴るー急にポンプでもつけ足したように。

例えば、直属の上司だ。評価される、命令されると思うと全身で警戒する。これはトラウマに近い。本能的に相手が誰であっても自分の身が危険になると感じる。こうなったのも、コロコロ環境が変化したためだ。前の会社で長い間会議室に閉じ込められて、私のパーソナリティに関わることを何時間も一方的に言われるということをされたからだ。

私は30代であるがこれまでに2回転職している。最初の会社では1年程度で仕事内容が大きく変わった。これは当時の私にはストレスであった。同期の中でも仕事内容がガラリと変わったのは私だけだったので、私は自分が何かやらかしてしまったのだと責めた。しかし、今思い返せば、上司になった人が鼻の下を伸ばして変な感じになっていたので、私の仕事が変わるという結果になったのだ。その上司にはずっと継続している仕事があった。それを途中から入った私がサポートしていたわけなのであるが、その上司の仕事を変えるわけにもいかず、新人の私の仕事が変わった。これは私がワンピースなど自分が好きな服を着て過ごしていたのが原因だと思う。それからというもの、周囲と同じような男性のような格好をするようになった。

次の会社に移り、長い間会議室に閉じ込めらてモラハラのような格好の扱いを受けた。これが私の自己肯定感を低くした。今思えば、上司は私に認められたいという一心でこのような接し方をした。なぜためになりたいと思ったかといえば、ある日、”はぁ、めんどくさい人”と私が上司との打ち合わせ終わりにつぶやいたからである。聞こえてないと思ってつぶやいたのだが、聞こえてしまったらしい。上司は指導をするのが好きな人であった。私は上司をイチ研究者として尊敬はしていたが、長々と理論を頼んでもないのに語られるのは滅入っていた。説明は大変分かりやすくありがたい限りなのであるが、私は自分で考え気づきたかった。時には野放しにしてほしかった。しかし、面倒見のいい上司はそうしなかった。手塩にかけて育てようとしてくれた。本当にありがたい話で、めんどくさい言うなんて贅沢と思うかもしれない。ただ、私も私で意思があった。これは親子関係に近いのではないだろうか。私と上司は親子くらいの歳の差があった。私を一人の人として認めてほしかった。対等に当たりたかった。上司とのその分野での知識量の違いがあるのは明白だが、知識量は2年もすれば十分追いつける。私は対等に当たりたかったのだ。しかし、それが叶わなかった。上司は私を可愛がってくれた。しかし、その可愛がり方には支配のような、自分の色に染めたいと言ったような、エゴがあった。この方法が良いと決めつける節があった。私は他の方法も良いと思うので提案するが、それがなかなか叶わなかった。今思えば上司は傾聴ができなかった。自身家の人、自分で何でもやってきた人、つまり研究者にはこのタイプは多い。そのような上司とのやり取りに、ある日うっかり”めんどくさい”と言ったのが聞こえてしまったのだ。その日から上司の態度は一変した。以前にも増して、私に対して自分の考えを語ったり、ついには私のパーソナリティについて批判するようになった。上司も必死だったのだと思う。本当にいい形で仕事をしたい。その気持ちが歪んだ形で出た。親子の癒着がいい例えだと思える。こうして私は相手に対してありがたいと感じつつも、上司が自立して欲しいと思う気持ちが平行線を辿った。その結果、私は上司を前にすると泣くようになった。そして期初に私の仕事が変わった。新しい上司は優秀な以前の上司でトラブルを起こした私をよく思っていなかった。どこか距離を置かれていたなと感じる。それでも、その環境で成果を出しまた軌道に乗ってきたと思った矢先に、海外出向の話が来た。私は今の旦那とちょうど入籍しようとしていたので、海外出向の話を断って転職した。

こうして今の会社に入社することとなる。しかし、ここでも干渉が起こった。今の会社はこれまでの会社の研究とは異なり、個人で進める仕事ではなく、チームで仕事を進めるようになった。年齢的にも私は管理職となり自分より一回り、二回り年が離れた人に対して仕事を与えたり、それを調整するようになった。もちろん、私も重要なところの研究はする。ただ、規模が大きいために人に任せて切り盛りしながら仕事を進めるようになったのだ。そんな中で私の上司は大変優秀であった。以前の会社の上司は研究者として一流で”野生の勘”も備えている人あったが、今回の上司は研究者としても、上に立つ立場の人としても優秀であった。研究職は法律などはめっきり弱いのであるが、その上司は世界の法律や社会のルールを熟知しており、様々な世界の企業と連絡を取り、契約書や特許、論文、発表をこなした。会社を買収し、その新しい環境の人たちを育て、仕事を一緒にできるようにしていく様を間近で見た。私もそれに倣った。その姿はまるで社長であった。なお、その上司の生い立ちとしては実家で経営している会社があり、上司は子供の頃からいつかは会社を継ぐ、自分がまわしていくという意識を持っていた。そんな上司は私のできないところに気づくとすぐに指摘してくれた。以前の会社であんなにも渇望した野放しにして、放任してくれた。任せてくれた。仕事でこれはやばそうだなとフラグを上げるとすぐに飛んできて助けてくれた。こんなにも素敵な人と一緒に仕事をしていたのだが、私は休職した。それは上司と研究の方向性を一緒に決められなかったからだ。この上司は傾聴して、私が意見を話ば聞いてくれるが、結局のところそれが採用されることはなかった。上司は上司で考える未来像があり、それに向けて全力で動いていた。何事も自分でできる人の近くにいるとこうなるのだと思う。下がどんなに提案したとしても、予め自分の練ったセオリーを変えることはない。それはその優秀な上司が考えに考えた策だ。論理的にも抜けがない。成果もでる。何も火のつけどころがない。従って、仕事のやり方、進め方、手段に限っては私は放牧されていたが、その走る方向に関しては明確なゴールがあった。これは管理職として非常に優秀だ。上司は本当にあらゆる能力を会得し完成されていた。自分の絵がいたゴールをチームに正確に共有できる力があった。しかし、私はその方向性を一緒に決めたかった。私も私として動く中で、こうしたらいいのではないかという少し異なるゴールがあった。結局のところ、私たちの仕事のゴールはその組織の大目標となるゴールと同一直線上にある。何かの組織にいる限り、自分の想い絵がいた方向に進めるためには説明がいる。それが理解されたり採用されるには手間がかかる。上司は優秀であるが、一人で道を切り開いていくことに長けていたのだ。上司はいつも演じていた。成果を出すために自分の姿を変えていた。仮面をつけた人であった。根っこは成果に囚われる不安な人であった。結果を何としても出すと考えていた。私は自分はこうしたいという方向性と組織、上司の方向性に乖離を感じ、その結果、病んだ。指示、命令、方向性を決められることに怯えるようになった

私はただ、周囲とうまくやりたかった。イキイキと働きたかった。自分らしく働きたかった。結果、マズローの提唱する退行欲求と成長欲求である退行欲求に囚われた。負担から逃れたいために満足を求めた。安全を求めた。負担を受け止めて成長しようとする成長欲求ではなく、これら2つの葛藤の中で退行欲求を解消してきた。その場で負担になることを避けてきた。認めたくないことに目をつぶり、これまでの欲求不満の積み重ねから来る後退欲求ばかりを満たしてきた

私は失敗してもいいから、自分で試して自分で歩んでいきたいと思う。臆病な私は凄いと思える人を真似たが、それはどんなに真似ても他人になるだけであった。どんなに能力をつけてもそれは私にはならなかった。私は自分は立派ではない、特別ではない。それでもいい。そう思えなかったからこそ、これまでは生き物として能力が高い人に惹かれた。立派な人、特別な人と思える人に執着した。安全、強い、立派、特別などその場の不安が一時的に解消する方を好んだ。その結果、不安な人と安心している人について観察、分析し、ブログで日々記事を書くに至る。

主従関係のある人に自分のことを正直に話す時、とても緊張するのは、ありのままの自分でいられないに出会うからだ。試せないと思うからだ。制限されると思うからだ。私らしくありたいと思う気持ち、自分で試したいと思うからこそ、そうできていそうなだなと思える立派な人、特別な人に執着した。私は挑戦したい。大樹に身を潜めるのではなく、勇気を持って自分の足で歩んでいきたいと思えた

満たされている人の特徴は、自分らしい目的があること、楽観的なこと、良い人間関係があることだ。今の会社でこれを成り立たせることは難しい。自分らしい目的をそこに置けないからだ。私は不安な人から安心している人になる過程に興味がある。誰しもが安心している人になれると思っている。その方法を体系立てたい。人生の指針として照らし合わせられるようにしたい。これはサラリーマンをしながらでもできるかもしれないが、私はこれをまとめることに人生を賭けたいと思っている。挑戦したいと思っている。孤独と不安を乗り越えつつも、今日も自分を見つめ、客観視を繰り返している。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?