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本屋、図書館の本を読み漁って

私はこれまで本屋さん、図書館の本を読み漁ってきた。特に自己啓発、心理学、精神、哲学といったジャンルの本を読み漁ってきた。(なお、私は理系なので理学、工学系の本も読み漁ったが、それはまた別の機会に)読み漁ってきたのも、どこか不安だったためだ。もっといい方法があるのではないか、もっと満足するのではないか、追求した人の見る世界は何か自分とは異なり、いい感じの世界なのではないだろうか、と思っていた。

読み漁ると、大抵の本は見覚えがあるようになる。この人いいなといった人を見つける。しかし、次第に読んだことない本、出会ったことのない筆者がいなくなるので、ネットでレビューが高いものから買い漁り、読んでいく。それも大体読み終わり、次は古い本を探したり、日本語ではない本を読み漁る。個人的な所感としては、古い本は時代背景、共感できる形は異なるが、突き詰めるところ言わんとするところは同じである。

多くの本を読んでも、悩むところがあった。今の私がどうすればベストなのかということがわからないのだ。抽象的すぎて、その形はいいのだろうが、では今の私はどう物事を捉えて生活していくのがいいのか、この焦燥感、不安、疲れた形をどうすれば拭えるのか。わからなかった。また、手段だけ書かれていて、本当にその手段をするのがベストなのかわからないこともあった。確かに、その手段はいいとも思えた。しかし、あれこれ試したが、結局のところ、疲れ、うまくいかないところは変わらなかった。一時的にうまくいっても、また同じようなことで悩んだ。

私は大学を首席で卒業して2回転職した理系のサラリーマンである。その時々の環境でベストを尽くそうともしたし、大きな困難がきた時も私なりに対応してきた。もっとできるようになりたいと様々なスキルを得ることもしたし、新しいものをつくるために、これまでに蓄積してきた知識を技術を利用するのではなく、脳を閃かせて新しい発想を得るといった、自分の脳の癖をなくすようなこともした。何かのプロジェクトのリーダとなり、多くの人と協力して物事を進めたりもした。しかし、私は疲れ、疲弊した。どんなに周囲とうまくいこうとも、自分が成長しようとも、結果を出そうとも、満たされることはなかった。

悩むたび、本を読んだ。知識を収集した。試してみた。しかし、そのやり方はうまくいくこともあれば、いかないこともあった。目先のことに対応してもまた同じことに悩むので、物事を広く捉えた書籍を手に取るのだが、概念だけでよくわからない。あれこれ行動するが、徐々に疲れていく。

側を見れば、私と同じような環境にいるが、いつもイキイキとしていて、無邪気で楽しそうな人がいた。冷静で分析もできるし、物事を俯瞰して捉えている。人のこともよく気づき、周囲と心地よい関係を築いている。無理していない。子供のようである。私とはどこか違った。

そういった過程を経て、私は一つの結論に至った。囚われがある人とない人では、何か行動した時の効果が違う。囚われがあれば、自分を疲弊させる。周囲も疲れさせる。何をしても、満足することがない。一方、囚われがなければ、何をしても満足する。満たされる。そして、囚われは誰しも子供から大人になる過程でつけるもので、仮面は環境により、より他種多様になり、多くの仮面をつける場合もある。使い分ける人もいる。仮面がどんどん分厚くなり、外すことが困難になる人もいる。しかし、そういった場合でも仮面は外せる。囚われはなくせる。囚われは、避けがたい困難があった時に、その時なりに対応した証だ。乗り切ってきた証だ。本当に頑張ったのだ。

しかし、どんなにできるようになっても、囚われがない人にはかなわない。囚われがない人は、こうしてやろうと思わない。エゴがない。狙わない。無理しない。結果として、囚われの人がどんなに合理的、生産的に動いても同じようにうまくいくことはない。仮面をつけていない人、囚われがない人は、自由なのだ、主体的に行動する。自分で考える。先手を取る。仮面をつけたー囚われのある人のように後手にまわらない。

本には手段が書いてあることがある。その手段は、囚われがある人と、囚われがない人がやった時は全く効果が違う。その場では同じに見えても、囚われがあれば、本人を疲れさせ、無気力とさせる。囚われがなければ、うまくいく流れをつくり、さらに新しいことができるようになる。これまで見たことのなかった世界に行ける。

概念だけではよくわからず、手段だけでもうまくいかない。私はこのギャップを埋めるべく、あれやこれやと角度を変えて、同じことをいい続けている。仮面を外すことは、より満足することに繋がる。

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