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あぁ、今日も疲れた

あぁ、今日も疲れたと思う人は、日々大変な戦いをしている。それはもう大変である。友達からいつものようにこれ見て見て!?良くない?と言ってくることに対応した後かもしれない。どこか目が死んでいて、いつもつまらない先生の話をたっぷり聞いた後かもしれない。特にこれといったことがなかったが、最近ワクワクしてない。日々ワクワクしている人なんているの?と思えるくらいかもしれない。試験が近くなってきて、周囲からあれやれ、これやれと言われた後かもしれない。受験が近くなってきて、みんなもそれに対してあれこれ動いているから、自分もまぁ取り急ぎ勉強だけはなんとなくしているが、どうにもこうにもやる気はでないという後かもしれない。みんなの前で話たけれども、けちょんけちょんに言われた後かもしれない。就職活動をしていて、あれこれ自分なりに試行錯誤して、情報収集をしたり考えたが、内定がまだ出ない日だったかもしれない。社会人になって、毎日奮闘しているかもしれないが、やりがいもあるが、一生懸命やって疲れたと感じた時かもしれない。上司からあれこれ要求されて、ちゃぶ台返しされた後かもしれない。話かけると、何かつっかかってくる人とかかわった後かもしれない。家でゴロゴロしていて、動画ばかり見ていて休んでいたはずだが、あぁ、疲れたと思っているところかもしれない。休みのない子育ての中で、子供は可愛いし好きだけど、このトンネルはどこまで続くのかと思っているところかもしれない。子供を心配してあれこれ言葉をかけたけれど、冷たくというよりももはや無視。存在を拒否された後かもしれない。部屋が散らかっていたので、片付けてよと話たけれど、自分でやれよと言われた後かもしれない。自由な時間はたくさんあって、何をするにしても自由だけど、なぜかやる気がなくて身体が動かなくて時間だけが過ぎて行った後かもしれない。身体が自由に動かなくて、ベットの上で一日過ごして、この生活の何がいいのだろうと思っている日々かもしれない。病気で本当に身体中痛くて、何かするどころではないし、今日も疲れたなんて言葉では表現できないくらい大変だったよと思うところかもしれない。

今日も疲れたと思う人は、日々大変である。それはもう大変である。人に話せば、大したことないじゃんとか言われたかもしれない。もっとこんな人がいるよと言われるかもしれない。そんなことは知ったことはない。自分は今本当に大変なのである。

あぁ、今日も疲れたと思う人は、周囲の環境から、そうならざるを得なかった。避けがたい困難があった。どう考えても、それは避けられなかった。いやいや、この選択肢があったから、まぁ避けられたかもしれないなと考えられるかもしれない。しかし、今は現に疲れているし、今日もあぁ疲れたと思っている。その事実は変わらない。

避けがたい困難を経験した状態から、満たされる世界にいくことは、人生で最も困難なことである。本当に大変なことである。しかし、あぁ、今日も疲れたと思うことが少なくなることはできる。その頻度を大幅に減らせる。もはや、あぁ、今日も疲れたと思わない状態にできる。

あぁ、今日も疲れたと思うのは、仮面をつけているからである。仮面をつけた状態とは、避けがたい困難の中で、なんとか今までやりくりしてきた勲章である。大人になる過程で誰もがつけるものである。

一方で、こんな自分をよそに、どこかうまくいっている人、イキイキしている人がいる。こういった人と自分は全く違うなと感じる。もはや自分には無関係な世界である。

しかし、あぁ、今日も疲れたとあまり思わない生活をする人は存在する。そして、そういった人はかつては仮面をつけていた。誰かに期待したり、助けになりたいと動いたり、ちょっとした見栄をはったり、この人は羨ましいなぁ、いいなぁと嫉妬したり、この状態はこうすればうまくいくでしょ、と物事をバサバサ捌いた冷酷な形であったり、こういう人って、こういうところがいいけど、こういったところが残念だよねと格付け、評論したり、毎日が楽しくないといやだー楽しさことが人生の醍醐味だから自由な方がいいよね、平凡じゃない人生の方が刺激的でいいよねと楽しさを求めたり、社会はこうなっているから、こうすることが勝ちパターン。寄らば大樹の陰ってやつだよと迎合したり、エネルギーさいたりすると疲れるから、波風立てないかが大事よ、事を穏便に運ぶのーと回避的であったり。過去や未来への執着から囚われがあった。そんな囚われがあったのにもかかわらず、囚われを手放して、あぁ、今日も疲れたと思わない生活をする人がいる。そういった人は元々は自分と同じような状態に置かれていた。今のことに悩み、疲弊し、搾取されていた。

あぁ、今日も疲れたと思わず、この日々の大変な戦いから、満たされる時を送るようになるには、一度足を止めてみる。手を止めてみる。身体を休めてみる。頭を空っぽにすることである。

いやいや、そんなことする時間ありませんけど?というかできませんけど?とツッコミたくはなると思う。あれこれ搾取してくる友達、上司、家族は今日も会うし、明日も会うんですけど?なんならところかまわず連絡がくる、関わってくるんですけど?試験は迫りきているんですけど?受験しないとニートまっしぐら手を止めるなんて合理的な選択ではないんじゃないの?就活の間口は今しかないし、これを逃すと苦労することは目に見えてるんですけど?子育ては常に押し寄せてくるんですけど?痛みは常に襲ってくるんですけど?

そう感じると思う。一生懸命それを積み上げてきた。頑張ってきた。それをやめろと?いやいや無理無理。それできるのは余裕のある人だけだからw

その主張も大いにわかる。そして、これを書いている中の人、私もそう感じてきた。そして、大いに苦しんできた。私は大学で首席の転職を2回した30代サラリーマンだ。

大学首席とは自分とは縁のない世界の人と思う人もいるかもしれない。要領良くて私とは畑違いの人だ、そう思うかもしれない。しかし、そうではない。私は仮面に囲まれた世界で育ち、不安を感じ、日々大変な思いをしてきた戦士のひとりだ。本当に大変だったから日々もがいてきた。不安だったからこそ、首席になるくらい、完璧を求めた。守ろうとした。これで大丈夫と思おうとした。正直いっぱいいっぱいだった。日々の生活に疲弊し、周囲の顔色を見て疲れて、いつもどこか不安だった。不安を感じないように、私なりに一生懸命もがいていた。

しかし、私はもがいた中、そして周囲の満たされた人を見て気づいたことがある。大人になる過程で誰しも仮面をつけるし、仮面に囚われたまま一生過ごす人もいる。一方で、仮面をつけていたが、仮面を外す人もいる。仮面を外した人は、それはもう自分とは全然違う感覚の中で生きている。

同じことをしても、自主的でどんどん意欲を持って進めていく。目がきらきらしている。楽しそうである。子供のようである。仮面の人と話しても、それで傷ついたりすることがない。むしろ、人が多く集まってくるので、仮面の人も多く集まってくる。そういった人が甘えてくる。攻撃したりマウントしたり、批判してくる。しかし、そういったことも大丈夫である。何故なら、そうなる状態を理解しているからである。物事を俯瞰して捉えていると、その状態に良いも悪いもなくて、状態の一つと認識できる。同じように大変な状態でも、大変な状態に気持ちが引っ張られて巻き込まれることがない。どっしりとしている。自信がある。

そして、仮面を外すとことは、人生最大の困難である。難しいから自分には無理だわと思ってあきらめるかもしれないが、ずっと、あぁ、今日も疲れた。と搾取され続けるか、仮面をつけずワクワクできるのならば、その世界に行ってみてもいいのではないだろうか(しかし、無理にとは言わない。)

仮面を外すには、真っ白いキャンバスを用意することだ。これは比喩でつまりは頭と身体を空っぽにすることだ。湧いてくる思考に対して、あーこういう事を思考してるなと把握して、それについてあれこれ考えないようにしていく。手放していく。身体中痛んでそれはどうやっても意識してしまうのだけれど?という人もいると思う。しかし、身体の痛みは手放せる。同様に痛みを感じているな、と認識して、それに囚われないようにしていく。後から振り返れば何も考えてなかったという時間を増やす。そうすると、どんどん頭が空っぽな状態、無の状態、つまりは痛みを感じていない時間が増える。この頭と身体を空っぽにすることは、瞑想やマインドフルネスをまねるとできるかもしれない。


仮面は、過去や未来への囚われでつけている。不安でつけている。この不安は自己肯定感を高めることでなくなる。つまり、自分は今の状態で大丈夫という感覚を身につけることで不安を手放せる。安心する。満たされる。痛みを感じる場合も同様である。自分は大丈夫。この根拠のない感覚は、やる気を生み出し、自分を予想していなかった状態に導いていく。頭と身体を空っぽにして、竹のような状態にすると、安心する。不安ではなくなる。これまでの執着がなくなる。そうして、自然とやる気が出てきて、これまでの大変だった状態を少しずつ変えていくことができる。自分がより満たされるようになり、当初は予想していなかったところに行き着くことができる。


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