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ここまでのシンカリオンZ

私はシンカリオンが好きだ

もともとホビアニが好きで、いろいろなホビアニを見てきた中で、おそらく一番夢中になったといっても過言ではないくらいシンカリオンが好きだ。

無印が終わり、映画になると聞いたときには泣いて喜んだほどで、先行上映会も試写会も(運良く)行くことができたし、映画館にも2桁回足を運んだ。

先行上映会のラストに映し出された文字

「シンカリオンは まだまだ止まらない!」

これを見たときにきっとまたシンカリオンは何かの形で戻ってきてくれると思っていた。

でもそのときから、一抹の不安があったのだ。

「シンカリオンはここで終わったからこそ、続きを望まれるからこそ、ここで終わっておくべきなのでは?」

続編というのものはどうしても前作と比較される。
それも、すでに完結済みの完成されたストーリーやキャラクターと比較されるのだ。

「前作のほうが良かった」
「続編は蛇足だった」

いままでどれだけの作品でこれを言われてきたのかわからないほどだ。

私は続編にひとつだけどうしても期待したいことがあった。

「前作とはつながりのない、パラレルな世界にして欲しい」

ということだった。
もし、パラレルな世界だったとしても、エヴァンゲリオン回方式や光の粒子の活用、もしくはドライブヘッドの映画のように、何らかの事情でファンサービスのように前作キャラが出てくる程度にして欲しかったのだ。

何故そう思っていたのかは後ほど。

地上波放送に先立って行われた第一話の配信。
数十分前から待機して、カウントダウンも見つめていた。

ストーリーが進む中で、ひとつの違和感を覚えた。

アブトに絡む「悪い大人」の存在だった。

無印に登場してきた人間のキャラクターたちには、明確な悪意というものを感じたことがなかった。敵側ではトラメとソウギョクがいた。それでもトラメですら「あいつは前しか見えていないアホ」くらいの感覚だった。ソウギョクに関してはビャッコの言葉通り。

「人間の大人」が、「子供」に対して、明確な悪意を向けた。
大げさではあるけれど、そのときに何かシンカリオンの根底を覆された気がしたのだ。

私がシンカリオンを好きになったひとつに、大人の存在があった。

ホビアニというものは子供が活躍するので、得てして大人の描き方というものが適当または無能になりがちなのである。

しかしシンカリオンは違った。

子供を危険な目に合わせている、本来は大人が守るべき存在であるはずの子供を最前線に立たせている。
そういった責任感をきちんと理解し、敵を倒すことよりも、子供たちの身の安全を第一に考え、サポートに徹していた。
だからといって万能ではなく、時に失敗し、情けない姿を見せたりする。
大人と子供としての接し方と、後方支援と最前線。
その立場をしっかりと描いていたと思う。
決して子供だからと軽く見ることもなく、真摯に向き合っていた。

Zの大人はどうだろうか?

「超進化ブレーカー起動!」
と、何度も何度もミサキがカットインしてくる。
正直「何でお前やねん」としか思えない。
それが業務であり正しい姿だとしても、運転士の家族に入場料金を請求するようなキャラクターだ(ただし足止めの意図があったことも理解できる)。
開発に関わっていたような描写もないし、オペレーターとしては無印のモブ程度の働きしかしていないように感じる。
そんなキャラクターが何度もバンクに登場する。
何でお前やねん。

超進化ブレーカーは、整備士にやらせたほうがよかった。少なくとも開発に関わっていたのだから思い入れもあるだろう。
彼らはZの大人の中でもとても有能だ。

十河指令長。
コードネームにこだわりがあるのは別にいい。キャラ付けとしてもうまく使えば愉快なおじさんキャラだっただろう。

でも目の前でシンが危険な目にあっている。

そんなことはどうでもよくて、自らのこだわりを優先させる。
それが指令長の姿か?
「秘湯めぐりだよ~♪」と言いながら実のところ自ら危険な調査に行くようなことはしないのか。

無印のキャラクターだって、最初から万能で、素晴らしいキャラクターばかりだったわけではない。
アズサは最初のころはウザいだけのキャラクターだった。アキタの家族の影も一切なかった。だから横川支部の大人たちがこれから先どうしてこんな言動をしていたのかが明かされるかもしれない。というか明かして欲しい。このままじゃただの無能だ。

そして満を持して登場したのがリュウジ。

ここで先に言っていた「前作のキャラクターを登場させないで欲しい」という不安が的中してしまった。

「シンカリオンに乗れなくなった」

という事実である。

私の中で、ホビアニにおけるキャラクターと玩具の間には、絶対的な絆があるという勝手な思い込みがあるのだ。
例えばもう動かない、壊れたものだとしても、キャラクターが強く願えば謎の力で動き出す、でも何故動いたのかはわからない……というような、言ってみればご都合展開のようなものだ。

だが、シンカリオンは、運転士を捨てた。

これは本当にショックだった。

意図的に描写していないだけとは思うが、大宮支部も門司支部名古屋支部も、他の無印の運転士に関しては一切触れないという違和感。
乗れなくなった理由が、他にあって欲しかった。

共に戦った相棒が、そんな簡単に運転士を見捨ててしまうのか?

正直、私はあまりリュウジは好きではない。
リュウジ無双が過ぎて他の運転士がただの噛ませになっていたことがあまりに多すぎた。
リュウジは丁寧に描かれているのに、トリニティは雑なのか……という思いもあった。そういえばツラヌキもメインのわりに掘り下げがあまり無かった。
まあそもそもショタコンなので中学生に興味はないんですけど。
そんなリュウジにすら、こんなにショックを受けたのだ。

そして、シンのオカルト好き。

実は私もオカルトは大好きである。
アンティキティラデバイスとかがうまく絡んできたりするのかな!? と、ちょっと期待していた。

だが彼は、キトラルザスやテオティを前にしても大して興奮することはなかった。
ハヤトがALFA-Xを前にしたような興奮は無いのか。
それでいいのか。

何よりこのオカルト好きを、ほぼ全員が全否定しているのだ。

「好きなものは好きなもののままでいいと思う!」

これはシンカリオンの根底であり、伝えたいテーマであり、誰もが心打たれた言葉ではなかったのか。

キトラルザスやテオティの存在を認識している仲間たちですら、シンのオカルトには否定的だ。
それなのにアブトの予知夢には多少疑いながらも従っている。
シンがもっと突き抜けてオカルト好きを通していたら、まあシンだしな……くらいの反応として受け取れるのかもしれない。
でも今はシンのオカルト好きを否定して、馬鹿らしいものみたいなあしらい方にしか見えない。
好きなものを否定される、そのつらさとくだらなさ、好きなものは好きなもののままでいいと伝えてきたのがシンカリオンだったのではないのか。

どうでもいいことだが、宇宙人と友達になる! というのがヴァルハランに関わりがあるのかもというのをちらほら見かけたが、彼らは元々地球由来なので正しくは宇宙人ではない気がする。

ツイッターでは池添総監督が現場の愚痴を言い、あおのさんが精神的にヤバそうなことをツイートしている。
それがシンカリオンのことなのかはわからない。
なるべく見ないようにはしている。
内部のゴタゴタは知りたくないのだ。

赤星さんが下りたとたん、雰囲気がいきなり無印のようになった。
シリーズ構成が変わるだけでこんなに作品の雰囲気が変わるものなのだな、とちょっと驚いた。
無印でも板井監督になったときに雰囲気が少し変わったけれど、ここまでの変化は無かったように思う。

でもパロディはほどほどにして欲しい。
こういうの面白いでしょ? と言われているようで食傷気味なのだ。
無印も板井監督になってからは悪ノリが過ぎたように感じた。

完結済みの作品と、まだまだ謎のままが多く、これからがある作品を、今の段階で比較することは無意味なところもあるかと思う。
これを書いている今、次回はキティちゃん回である。
つられて優しくなっちゃって、楽しく作品を応援できるようになるといいな、と心から思う。

できたてのポップコーンはいかが?

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