やさしい鮫/おとなの妹
今の私はイルカについて、正確かどうかはさておき、多くのことを知っている。鯨偶蹄目ハクジラ亜目の中で比較的小さいものを一般的にイルカと呼ぶ。分類上クジラとの明確な違いはない。半球睡眠をしている。超音波を発してその反響で獲物の位置を測るエコロケーションを使う。米軍には軍用に訓練されたイルカがいるらしい。漢字で書くと海豚、冬の季語。ちなみに「河豚(ふぐ)」も冬の季語である。こんなに漢字が似ているのに、本人たちは全く違った形状なのが不思議だ。
私にとってもイルカが「やさしい鮫」だったような頃があるはずなのに、もう思い出せない。イルカを知る前の自分は既にいなくなってしまった。思い出せたら松村正直のような短歌を詠めるかもしれないのに。
イルカの名前を知らなかった頃の私は、それを何と呼んでいたのだろう?
何かを知ることは、知らなかった頃の自分と未知だった世界を喪うことだ。その変化は不可逆である。知識や経験した時のことを忘れてしまったとしても、知らなかった頃の自分には戻れない。溶けてしまったアイスを冷やし直すと、元々の滑らかな舌触りが僅かに損なわれてしまうように。日記の書き損じた文字を修正液で塗りつぶしても、そのページが元通りの白紙には戻らないように。
近所のファミレスで食事をしていた時のこと。
私の隣のテーブルに、まだ幼い姉妹とその母親、母親と同い年くらいの女性の4人組が座った。姉妹は女性とはほとんど初対面のようで、少し緊張した面持ちでそわそわとしている。何才になったの?何のご飯が好き?などと質問攻めにあって困っている。それを見かねたのか、母親が「覚えてるかな?この人はね、ふたりの叔母さんだよ。ママの妹なの」と女性の紹介に切り替えると、幼い少女の姉の方が驚いた声を上げた。
「えー!大人なのに妹なの?」
この子にとって妹というのは自分の妹のことで、つまり「一緒に暮らしている自分より小さい女の子」のことなのだろう。そういえば妹という言葉からは、なんとなく10代くらいまでの女の子が連想される。実際には10歳の妹も90歳の妹もこの世には存在するはずなのに。この子はまだ妹という言葉の意味を明確には知らずに、自分の横にいる小さな女の子が妹である、という認識しかないのかもしれない。なんて可愛らしいんだろう。女性も「そうだよ、おとなの妹なの」と微笑ましそうに答えている。この少女はきっと、叔母というのはおとなの妹なのだと覚えるだろう。彼女は納得したような顔でこう続けた。
「じゃあ、ママが守ってあげてるんだねえ」
その時、しおり、と私を呼ぶ声がどこか遠くから聞こえた気がした。少し怒った、でもほっとしたような、まだ幼い兄の声。そうだ、あの頃。兄は私にとって「私を探してくれる男の子」だった。色んな事情があってしばらく離れて暮らしていて、私は彼が自分の家族で兄だという実感がまだ湧いていなかった。この子が私のお兄ちゃん?兄とは、一体なに?私の世界に突然現れたその存在をうまく受け入れられず、初めは少し距離を置いていた。
幼い頃の私は空想の世界に生きていて、会話中はいつも上の空、気になるものを見つけたら1人でふらふらと向かっていってしまうような子どもだった。家族とはぐれてしまうのもしょっちゅうで、はっと気づいた時には自分がどこにいるか分からず狼狽え、心細くなった。そしてそんな時、自分から勝手に離れたくせに取り残されたような気分でその場に立ち尽くしていると、必ず兄が迎えに来てくれた。いつも遠くから兄の「しおり!」という声が聞こえて、随分と呆れていたようだけど、それでも絶対に見つけてくれた。いなくなるのは良いけどせめて見つけやすところにいて、と少し怒って早歩きをする兄に手を引かれながら、私は「お兄ちゃんっていうのは、私を探してくれる男の子のことなんだなぁ」とぼんやりと考えていた・・・。
隣のテーブルに座っているこの少女にとって、妹というのは「守ってあげる女の子」なのか。母親にそう言われているのかもしれない。そしてこの妹にとって彼女は「守ってくれる女の子」なんだろう。この先何があるか、2人の関係性がどう変化するかは分からない。でも、この瞬間の幼い姉妹はそういった関係なのだ。彼女たちがいつか忘れてしまったとしても。
今の私の世界には「やさしい鮫」も「私を探してくれる男の子」も、もういない。それらは「イルカ」「兄」に取って代わられた。それでもふとした時に、淡い記憶の向こうにいる彼らの存在に、その温もりの余韻に触れられる瞬間がある。私はその瞬間をとても愛おしく思う。
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