【質問箱】唯一無二の存在を失った時の生き方
お題(質問):私は深海に沈み続けているようなきもちでこれまで生きてきたのですが、そんななかで唐突に光が刺して引き上げられて、その光の存在を自分の行いのせいで永遠に失い、まともに息のできない深海に戻ってきてしまいました。絶対的な唯一無二の存在があったとして、それを永遠に失ってしまったら、どのような生き方をしていきますか。わたしは、いま、生きることすべてが贖罪だと感じています。失ったものでできた穴はあたらしいもので埋めるというのが世の中の定石のような気がしますが、失ったものの代替品を求めて生きていくなんて、あまりにも空虚で、寂しいと思ってしまいます。
質問箱からお題をくださった方、ありがとうございます。
永遠はあるのだろうか?とよく考えます。そもそも永遠ってなんなんでしょうね。私は永遠のものは存在しないと思っています。人間も環境も必ず変化するので。でも永遠を信じています。例えば誰かに「永遠に愛し続けます」と言われたとしたら(多分それは無理だろうな。私のことをずっと想ってくれたとしても、愛情の性質は良くも悪くも今と同じものではなくなるはずだ)と考えます。それでも、この瞬間、この人は本心から、私に対する愛を永遠に持ち続けるのだと信じているということに烈しく心を動かされます。誰かが永遠を信じるその一瞬の中にだけ、"永遠の燦めき"が閉じ込められているのだと思っています。永遠性は瞬間の中にだけ宿っている、と言うのが私の所感です。
いただいた質問に回答するならば、「唯一無二の存在とともにあった瞬間の中の"永遠の燦めき"を胸に抱きながら、代替ではない新たな燦めきを得るためにもがき続ける意志を持つ」です。あなたの質問を読んでいて、贖罪の意識を持っている苦しみと、喪失感とどう対峙すべきかの混乱があるのかなと感じました(私の思い違いでしたらごめんなさい)。私にはあなたの絶望や寂しさを真の意味で理解することはできませんし、残念ながら有効な手立ても思いつきません。なので私はこうして生きてきましたということしか言えませんが、それでもあなたに向けて書きたいと思います。
村上春樹『ノルウェイの森』の中で、主人公の学生寮の先輩・永沢が主人公に向かって言う台詞があります。「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」と。私はこの永沢という男があまり好きではないですし、下劣とまで言う程のことではないと思いましたが、この言葉にはいくらか影響を受けました。私も自ら大切な存在を手放してしまったことがあるし、それ以外でも様々な過ちを犯して、自分のことが恥ずかしくてたまらず罪人になったかのような気持ちを抱えていたことがあります(今も完全にはなくなっていません)。それで自分のことを責め続けていました。もちろんこういった心持ちで生きていくことは辛いですし、贖罪の意識を持つことで自分が慰められる、あるいは贖罪したい相手がそれを望んでいて自分もそれに応じたいと思うなら、それでも良いと思います。ですが、私は自らを責めることで楽になりたい、このまま救われたいと漠然と思っていたような気がします。そしてそんな自分のことを下劣で怠惰な人間だと感じました。少なくとも私が今自分を責め立てているのは、誰かにとっても自分にとっても最善の策ではない。贖罪したいのであればその相手や周囲が求めていることを考えるべきだし、自分の中の罪の意識が消えないというだけならば、そこから立ち直るための方法を考えるべきである。見当違いな方向になったとしても、少なくともこのままじっとしているよりは一歩でも動いてしまった方が良いと思い、この贖罪の意識に対して自分がどう実際の行動を起こすかを検討しました。
何かを失って心にぽっかりと穴が空いてしまったとき、私はその穴を埋めるための代替品は求めません。心の穴が埋められた時に、失ったものに近しい物のおかげだったと気づくことはあるかもしれませんが、最初から代替品を探すことはありません。そんなものは存在しないのが分かっているから。それに、何かを失ってしまった時にそれに近しいものを追い求めると、余計に喪失感が強くなります。物事の相似点を探すという行為は、それらの相違点を目の当たりにするのに等しい。あくまで私の考えですが、人生は、全て意志です。心の穴を埋めて以前と同じような平らな面にしようと努力しても良い、穴から目を逸らして別の場所で花壇を耕したっていい、穴に水を貯めてそこで綺麗な淡水魚を飼ってみるのも良い、ただ穴の中の暗がりを見つめ続けても良い、それが自分の意志でありさえすれば。具体的にすぐ何か行動を起こさなくてもいいんです。ただ自分の意志を頭の片隅に常に置いておく、そしてできる時はそれに沿うような選択をする。そのくらいです。(念のためですが、結果は努力によってのみ得られるという話ではありません。物質的なことの他で、自分が納得するためにです。)私は自分の意志で、辛くても、苦しみと手をとってもがきながら、それでも死ぬ時に少しの美しい思い出を抱きしめて、自分は最善を尽くしたと思えるように生きると決めました。生きているとまるで天命かのような偶発的な出会いがあって救われるということがあります。それはとても貴重で眩い瞬間ですが、後から振り返った時に、自分はそれに感謝はできるけど自らを認めることはできないと思います(自分でその瞬間が訪れることを信じて待ち続けるのであれば、それは自分の意志で引き寄せたと思えるので良いのですが)。自分の意志で選んだことであれば、たとえそれが最終的に間違っていたとしても、他人からすると馬鹿馬鹿しい行いであったとても、私は死ぬ瞬間に、「よくやった!」と自分のことを認められるんだと信じています。今が苦しくても、私はその瞬間のために生きることを選びました(余談ですが、太宰治が織田作之助への追悼文で「織田君!君は、よくやった。」と書いていて、この文章を読む度に感激で胸が詰まりそうになります)。
今でも苦しくてたまらない時が度々ありますし、全てが無駄に感じられる時もありますが、私は自分の意志に支えられています。自分に対して、よくやった!と言える日が来るまで耐えながらでも生き続けられます。あなたにとっては意味のないことだと思いますし傲慢に聞こえるかもしれませんが、あなたの意志によって選んだ行いであれば、それがどんな結果に終わったとしても私は「あなたは、よくやった!」と伝えたいと思います。
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