「壊」の文字を使ってはならなかった方たち、その理由

拙著新刊の『「脳コワさん」支援ガイド』において、「壊れた」という言葉に傷ついた方々への記事を先日公開し、レスポンスをいただきました。そのうえで、これはどうしても加筆せねばならないなというお声をいくつもいただきましたので、追加の記事を公開させていただきます。

まず本題に入る前に。「なぜそこまで謝罪するのか不思議」というお声もあったのですが、それについて前回の内容に補足します。
古い言葉を引っ張ると鈴木は典型的なメランコリー親和型のパーソナリティじゃないかみたいな解釈をされるかもしれませんが、多少そういう傾向はあっても、謝罪を重ねた意図は違います。
5年前、高次脳機能障害における「心理的な急性期」(脳外科的ではなく)に注意障害が強く出た僕は、注意を引いたものを凝視したまま視線を外せなくなるといった症状と同時に、嫌なことをされた強い記憶、強く感じた嫌な感情といったマイナスの感情にも心理的な凝視状態になってしまって、「何をしようとその感情から逃げられない」という症状に苦しみ続けました。
5桁の数字も記憶できずレジ会計もできないというような記憶の障害を抱えていた半面で、この状況にあった僕はマイナスの感情や出来事に限って克明に記憶し、24時間何をしていても、しっかり寝て爽やかに起きたはずの朝であっても、思考の片隅に残っているマイナスの感情にふと「思考の視線」が向くとそこから目を離せない(そのことしか考えられない)という、それはそれは著しくQOLを失う経験をしました。

それまでの僕は、気分転換が難しいとか、人前で不機嫌な人を、面倒な人だとかわがままな人の文脈で考えていましたが、自身で感情と感情のコントロールができなくなってみると、それは思いもよらぬ大きな苦しみを伴うものでした。
見たくないマイナスの記憶や感情をフラッシュバックさせ、凝視してしまったときの僕は、口や喉に灼熱の湯を含んだまま飲むことも吐き出すこともできない、または鼻の下に異臭を放つ汚物がくっついているのに何をしてもそれを洗い流せないといったような、猛烈なもどかしさと苦痛を味わい続けました。

そんな経験をした僕なので、他人に辛い思いや嫌な思いをさせたときに「それは相手の受け取り様の問題だから」なんてことは、もう言えません。嫌なな思いをさせる、傷つけるとは、見えなくても十分暴力に等しいことであり、他人を意図せず傷つけたら謝るのが当然です。僕が前回のNOTE記事でも、ツイッター上でも度々謝罪の言葉を重ねたのは、そうしたスタンスによるものです。


まえおきが長くなりましたが、ここから本題です。


前回の記事で僕は、ある「壊れたという表現を絶対に使ってはならなかった方々」について、失念していました。そのことを、記事を読んでくださったひとりの当事者のお母様にご指摘いただき、気づくことができました。
それは
「学齢期の当事者と、そうしたお子さんを今育てている親御さん」です。

お言葉を借りると、

~~発達特性があることを見過ごされてきた成人当事者の方が、苦しみ抜いた上で「そっか、わたしの脳って壊れてたんだ!だから苦しかったんだ!」と救われるのと、「生まれつき脳の仕様が違うから、自分の仕様に合わせた工夫をしたらいいよね!」と、自己肯定感を損なわないように大人が腐心しながら育てている状況では、「壊れた」という言葉が真逆のスタンスになってくる~~

僕が失念していたのは、この視座です。
そもそもこれまでの僕が接点を持ってきたのは、発達障害界隈であれば支援を受けられないまま成人したことで社会から排除的な扱いを受けたり二次障害を起こされていた当事者とか、成人後診断ケースの当事者とか。指摘を受けた「学齢期周辺」では特別支援学校の教員さんや児童指導員といった立場の方々が中心でした。
なので、親御さんの支援拒否とか支援教育への丸投げ問題とかの話は聞き及んでいた一方で、必死に当事者の子どもの成長を支えようという親御さんのお話はきちんと聞けていなかったように思います。

ご指摘くださったお母様は、おふたりのお子さん(いずれも当事者)を育てていらっしゃるとのことですが、一般学級の子どもからの心ない差別の言葉をなげかけられたり、聴覚過敏のためのイヤーマフを取り上げられたり踏まれるといったイジメへの対応、それに対する教員の無理解な対応などに「毎日が戦争のよう」とも言います。支援対象の子だけ特別な配慮を受けていることを「不公平だ、ずるい」と攻撃されることもあり、生活保護バッシングなどとも通じるような差別が日々「空気のように」あるものだとも……。
お声をいただきながら、僕自身が、そのあまりの理不尽に平常心を失いました。21世紀だし令和だし、療育ブームと言ってもいいと思っていた今、リアルタイムでこんなことがあるなんて。
「たぶんお怒りになっている方は、現在進行系でそうした思いをされている方では」とのお声に、返す言葉がありませんでした。

今回の「脳が壊れた」の言葉に対し、ツイッターなどで好意的なコメントをくださっている方のほぼ全ては、僕同様の中途障害の当事者や、先天性であってもすでに学齢期を超えて成人後の当事者さんばかりです。
そんな僕らにとって、脳が壊れたという言葉を前向きに受け入れ、自分に具体的にできない何かがあると知ったうえで新たな自己肯定を目指すのは、その後の人生をよりよく生き抜いていくためにそうしたほうが「戦略的」だからです。
自身の脳の不定型が自身の不自由の原因だと受け容れることは(たとえ受け容れる際に少々傷ついたとしても、その瞬間自尊心を失われたように感じても)、「できるんだ!!」と抗って傷つき続け折れて一歩も進めなくなってしまうよりはよっぽどマシで、その後に社会の中で自尊心を回復し、自立し生計を立てていくための戦略的手段だからです。
「適度に諦めること」「前向きな諦め」は僕らの苦しさやじれったさを緩和する万能薬でもあります。

けれどいっぽう、たしかに学齢期、自尊心の生育過程にあるお子さんは事情が違います。
子どもたちはまだ、自分がなぜ生まれつき人と物の感じ方や考え方が違うかわからない。周囲に理解を求める言葉を自ら持ち得てもいない。その中で自己イメージと自己肯定感や自尊心を育んでいくのは、想像以上に難しいことでしょう。
その段階で「壊れてる」の言葉を浴びて失ってしまって損なわれたお子さんの自尊心を回復するのに、親御さんはどれほど苦心なさることでしょう。
ご指摘のように「壊」は、この段階、つまり親御さんが丁寧に腐心してお子さんを育て上げている途中の段階では、自尊心を打ち砕く、あってはならない言葉でした。
「主語を大きくする」ことは診断名や領域を超えた横断的配慮を支援サイドにお願いする今回の本の主題そのものではありましたが、その視点を失っていたことには、改めて反省が必要です。

一方で記事公開後、同じく当事者の親御さんや当事者からお寄せられた声の中で、「その脳の仕様で生まれてきたから」(先天性)という言葉をベースに、いくつかの文脈のお声があることにも気づきました。
1・その仕様で生まれてきた。そのことについて壊れたなんて言われたくない。
2・その仕様で生まれてきたことを受け入れ、苦手を苦手でなくさせるための工夫を重ねることで戦略的に生きやすさを目指している。
3・その仕様で生まれてきた。けれどその仕様を障害にするのは社会。社会が不自由を障害化させないシステムを目指すべきだ。

これらのお言葉には、ちょっと考えさせられました。さすがに僕も健常な脳の持ち主ではありませんから、攻撃的なお声であっても流すことも受け止めきることもできずに今もほぼ倒れていますが、倒れながら二日かけて、ずっと考え続けています。

さらなる火に油は嫌なのですが、適当に逃げたくないので、書きます。

まず、前回でもそうだったのですが、壊れたなんての「なんて」のニュアンスには、正直僕自身が傷つかなくもないです。仕様はよくて、壊れたは「なんて」なの? 僕の脳は画像で見ても造影されない血管があって、スタンダードとされている脳と比較すれば欠損し壊れています。生まれつき発達障害特性の中で生きてきた僕の妻は悪性脳腫瘍をギリギリ生き抜いたサバイバーでもあり、発症時に大きな組織を摘出した穴が、今も脳にぽっかり空いてます。
妻のまだ生え揃わない髪の毛と、いびつに残る術創を見ながら、「壊れた」をそこまでマイナスの言葉に解釈されることには、ちょっとどんよりなのです。壊れてちゃいけないの!? って言いたくならなくもない。

また、次の「仕様を受け入れて戦略的に育てていく」という考え、これには共感というか、仲間意識しかありません。最初のご指摘のように、壊れたの言葉が「戦略的に使いやすい」僕らと、その言葉を投げかけては「戦略に問題が生する」という差はあれど、目指しているベクトルはほぼ同じ。
一方で、療育を経て成人を迎えている発達障害当事者の方からはこんな言葉がありました。


~~発達障害であれ定型であれ、子どもは成長の過程で、親や誰かから教わるのではなく周囲との関わりの中で「自分の能力はだいたいこのぐらい」と、自然に諦めを獲得していくもので、その中でどうやりくりしていくかを考える時期が必要じゃないですか。発達障害を抱えていても子どもは親の私物ではないし、その等身大を自分で見つけられなかったり見誤ると、発達障害とはいえ発達できる部分を伸ばせなかったり、結局『どうしてできないんだ』ということで余計に苦しみ続けると思います~~

この方は、「壊れている」という言葉にお怒りの親御さんは子どもを私物化していると逆にお怒りで、ちょっとどう解釈すればいいのか板挟みになって、混乱しました。
ですが、じっくり考えると、このお言葉によって僕は、また気づかされるものがありました。
それは「壊」の言葉にかなり強くお怒りの声を上げている親御さんには、重度な先天的脳機能障害のお子さんを支援し続けている方々が多かったことです。
脳の機能障害にはグラデーションがありますから、そこには生存戦略のグラデーションも存在します。進学や就労が可能な当事者は、それこそ自尊心と自己認知を育て、等身大の自分で戦略的に生き抜く必要がありますが、それができない当事者もいます。
「壊れた」を積極的に使ったことには、その本来ネガティブな言葉をあえて前向きに受容することで(かつて「べてるの家」が始めた「幻覚&妄想大会」や「病気で町おこし」といった文脈に近いものとして)、その言葉の意味をそのものを変えてしまいたいという気持ちもありました。
けれど、やはり、「壊れた」を受け止める「強さ」と、受け入れることの「メリット」は、誰にでもあるわけではありません。
先にも述べたように主語を大きくすることはこの本の核心ではありましたが、一方で「それが大きすぎないか」という配慮がなかったことは、大切な反省点です。

ではさいごの、仕様を障害化させるのは社会であり、その社会がユニバーサルなデザインになるべきだというお声についてはどうでしょう。実はここもずいぶんと考えてしまった部分です。この考え方は僕自身が過去の著書でも何度か書いているものでもあるのですが、最近少し考えが動いている部分だからです。
まず、どんな特性、どんな仕様の人も障害化しない完全な社会について、僕自身は期待することを諦めました。そこにはどうしても矛盾や乗り越えがたい壁が発生してしまうからです。

例えば僕は聴覚過敏が厳しくて、特定の音と同時に処理しなければならない思考や行動があると、脳が情報処理の破局に至って何もできなくなってしまう不自由を抱えています。ですがそんな中、駅構内などで最も僕をパニックに陥れる音は盲導鈴、つまり「視覚障害者用の誘導アラームの音」なのです。これはバリアフリー新法後に普及したもので、視覚障がい者の方を安全なルートに導くための配慮です。駅改札のみならず、大型公共施設などでも多く聞かれるものなのですが、今でも耳栓無しで聞いてしまうと、頭に靄がかかったように考えがまとまらなくなり、とても苦しい思いをします。
その他、物流を担う大型車のブレーキの擦過音や、害獣抑止のためのモスキート音など、社会がその経済活動の中で何らかの目的を持って発生する音にも「攻撃された」と感じるほどのダメージを受けるものがいくつもあります。
また、電話での会話でもパニックが多かったため、病院の予約変更などはわざわざ遠方の窓口に行ったり、受診を諦めるなんてことまでありました。しかし、この「苦手」を解消するために全窓口対応化とか全メール対応化(そのぐらいはしてくれよと思わなくもないけど)をお願いしたときに、どれほどのコストがかかるのでしょう。どちらかを取れば、ご自宅から動けない方などメリットが拮抗する方も出てきます。
配慮は何かと拮抗し、両立しないケースも多々ある。いわば社会的配慮のトリアージとか、経済活動と比較しての優先順位付けの中で、脳機能に不自由のある者への配慮を得ていかなければならないわけです。
このような状況の中で今思っているのは、「こういう仕様なんだから対応してくれ」と社会の変革を要求するだけでなく、自発的・積極的に不自由を緩和して社会に進出しつつ、どうして不自由なのか、どんなことで困るのかを具体性をもって当事者自身が発信していくことが、よりよい戦略なのではないかということです。

また、そうした戦略の過程で、僕ら中途の当事者や成人当事者は、今回僕が傷つけてしまった方々のお力になれるのではないかと感じてもいます。
僕は高次脳機能障害の当事者ですが、抱える困りごとは大きく自閉症当事者と被っていて、その不自由や具体的な苦しさのいくつかを言語化することができると考えています(今回の本もそのお困りごとの言語化・わかりやすい翻訳を試みた内容です)。
ぼくらには、まだ伝える言葉の少ない子どもの当事者を代弁できる部分があるかもしれません。お子さんの不自由を理解してあげられないことに苦しんでいる親御さんも多いと聞きますが、その不自由感をお伝えすることもできるかもしれない。
その不自由に無配慮な支援現場や教育現場などに対しても、やってほしくないこと、なぜやってほしくないのかといった具体的な配慮をお願いすることもできるのではないかなと思っています(脳の情報処理に問題を抱えた当事者にとって、現代社会、なかでも特に公的サービスはあらゆる無配慮に満ちていると感じています)。

……やっぱり少々勇み足に感じられるかもしれませんが、今回、ツイッターのDMなどを介して、対話に応じてくださった方々によって、まだまだ知っていかなければならない当事者やご家族の置かれた状況があることに、改めて気づかせていただきました。自戒と共に、ほんとうに感謝しています。
お子さんの自尊心を育む途上で「壊れた」の言葉が阻むものの大きさや、お感じになる徒労感については、そこに思い至らなかったことに深く反省しています。前回の繰り返しになりますが、その上でお返しできることは、頂いたお気持ちを無視せず大事に抱え、今後の発信に生かし、新たな知見を広めていくことでしかありません。

などと、何とか冷静に書いていますが、実は最後のチェックをしながら「イヤーマフを踏まれた」ということが頭に渦巻いて、涙が止まらない状況です。
現状、頭の中で自分の声よりも人の声が大きくなってしまっているような状況で、半ば倒れています。このままだと僕自身が本格的に壊れてしまいそうですので、この回答を持ちましてしばらくツイッターからは離れさせていただきます。
長文にお付き合いくださり、ありがとうございました。

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