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正倉院展と手わざ展見ました。

このブログ、閲覧数はこちらでわかるので、読んでくれてる人けっこういるのわかります。ありがとうございます。フォロワーは少ないけど、まいっかと書きますね〜。

今、沖縄県立博物館では正倉院展、沖縄芸大では手わざ展をやってます。どちらも作られた時代となるべく同じ材料同じ技法で作る、再現模造の展示です。

うちでも風呂敷を手がけてすごく苦労したので、他のものを見ていると大変さに目が眩みます。今思えばうちのはまだ簡単な方だったとおもいます。

何が大変だったかというと、どう作ったのかいっさいの資料がない。成分分析で出たデータをもとに材料を揃える。しかしまず材料がない。例えば黄色の顔料などは「ひ素」が入っているので現代では取り扱えないから代用品を探す。そして技法を探る。現在は誰もやっていないことがあると他分野の人も交えて探っていく。琉球絵画の方の話が参考になったりする。読み取るには多くの人の経験と知恵と感覚とを全てフルに動かして考える。

とても短く簡単に書いたけど、試作を何度も重ねてやっと出来上がる。だから同じ思いをした他分野の人の苦労話を聞くと共感できて楽しい。沖縄のものは直接聞いたり、講習会や新聞記事などでいろいろ見聞きしたが、正倉院の図録にも書いてあって全てのレベルがすごいが大変さがわかりおもしろい。

中でも作った人全員に聞いてみたいと思っていることがある。昔と今の精密さの違いだ。

正倉院の図録にも今より細かいことは気にしないのかおおらかな部分があり、逆にそこを再現するのがとても大変だったとある。それから、アップの写真などで気づいたがもっときっちりしていると思っていたものが、ユルイ線も多く沖縄と共通する部分も発見できた。

沖縄はそんなのばっかりで、おおらかだユルイだ下手くそだなどと片付けられがちだが、とても技術があるのにワザとやっているとしか思えないことがどの分野にも見え隠れする。うちでやった風呂敷もそうだった。とても上手い人が作っているのは確実で筒引きの糊の扱いに長けている。だけど、あえてなのかなんなのかヨロヨロの線のところがある。柄の合わせも対して気にしていないし、間違いもある。これを再現するのがまた大変。

他分野にも一つのものを2人で手がけている部分とかあり、そんなことしたら手が変わって途中で感じが変わってしまうと思うが、それもワザとだと思う。製作者が違う対のものもあった。今なら同じ人が作るだろうな。

完璧に作り過ぎるのは神様だけだから一箇所外すとか、完璧なものには魔が宿るなどという考えは日本のものにもよくあるのでそれかなあとも思うが、沖縄のものはなんというかちょっと違う気がしている。

私の考えなのだけど、自然の法則と同じにしているんじゃないかと思う。自然は同じものがキチンと並んでいるようにみえてもよく見たら全く同じものはひとつもない。左右対称もない。その法則を取り入れているんじゃないかと思う。だから自然が人間にもたらすホッとする感じがあふれていてそれをおおらかだとかユルイだとかと解釈しているのでは?と思う。

これがまた完璧にきちんと作るより大変むずかしい。琉球の人達はすごい技術があるのにそれの使い方が絶妙で、サラッと外すということをやってのけている。王様レベルの最高級品だけでなく、庶民のものにもそれを感じるので、そういう風土が出来上がっていたのかもしれない。

そこに知らず知らずに惹きつけられているガチガチの現代を生きる我々。わたしもそのひとり。もっと頭を柔らかくして昔の人が見ていたものを感じたいと改めて思った。

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